鳥取県西部に位置する西伯郡大山町。美しい海と中国地方を代表する名峰・大山とを擁する、自然豊かな古い町である。歴史的にも南北朝時代の後醍醐天皇着船の伝説や、小泉八雲として知られるラフカディオ・ハーンが訪れた場所として有名であり、古い集落や小さな漁港には、なんとなく神秘的な雰囲気が漂う。
生まれ故郷から遠く離れたこの町に移り住み、素潜り漁師として生きる一人の男がいる。それがこの話の主人公、中村隆行さんだ。中村さんがどうやってこの海へと辿り着き、素潜り漁師となったのか、そして素潜り漁とは一体どんな仕事なのか?……、それが今回のお話である。
素潜り漁師の朝は早い。早朝、中村さんはウェットスーツや桶などを積んだ軽トラに乗りこみ、浜へと出かけていく。私が取材に訪れたのは3月初旬。早春の大山町の海はとても冷える。このように寒い日でも、そしてもちろん真冬でも、中村さんたち素潜り漁師は海へと潜る。漁は朝7時から12時まで。この時間は漁協で決められているもので、この許された5時間だけで漁師たちは獲物を探す。
さて、そもそも素潜り漁とは一体どんな漁なのだろうか? その名の通り、ボンベ等の潜水具を使わずに海へと潜り、貝やワカメ、魚などを採る漁だ。身につけるものはウェットスーツとゴーグル、体を守る手袋や半袖Tシャツくらい、とほぼ体一つのいでたちだ。船は使わずに単身、獲物を入れる桶を担いで、浜から厳しい海の中へと赴く。
海岸から数百メートルくらいまでの海域へ桶を持って泳ぎ、そこから水深7mくらいまでのところへ息を止めて潜って獲物を探す。潜水時間はおよそ1分から2分。貝は岩から引きはがす道具などを使うこともある。海面まで上がっては獲ったものを桶に入れ、また潜るという作業を繰り返す。中村さんは「鳴り石の浜」と呼ばれる、丸い石がごろごろと連なる浜から潜っていくことが多い。鳴り石の浜の前には灰色に波立つ荒々しい日本海が広がり、そして振り返れば雄大な大山がそびえ立っている。
日本海は冬から春にかけては時化ていることのほうが多いので、この時期は月に7日も潜れればいいほうだと言う。海に潜ることができなければ、当然売り物が獲れないので、収入にはならない。厳しい世界だ。逆に夏の日本海は驚くほど穏やかで美しい。春から夏にかけて、ワカメ、サザエ、アワビ、岩牡蠣それに魚と、漁のシーズンは続く。
中村さんは「漁師は腕が3割、運が7割」だと語る。古来より海に生きる男たちは、自然を敬い、神頼みやゲンを担ぐ、といったことを大切にしてきた。「今でも月の満ち欠けがよく分かる旧暦や、六曜は大事な情報なんですよ」と中村さんは言う。
素潜り漁では、海の中のどこに獲物がいるかを知る技術が必要だ。それは誰かに教わるものではなく、経験しながら自分で探っていくしかないものだと中村さんは言い切る。しかし経験だけではどうにもならない部分もあるのだという。例えば広い海の中で、昨日たくさんサザエが獲れたとしても、今日も同じようにサザエがいるところに辿り着けるとは限らない。そこに辿り着くには、実は運頼みのところも大きいのだそうだ。運頼みとはすなわち、自然の営みに逆らわない、ということなのだろう。この日も朝から漁の密着取材をする予定だったのだが、残念ながら海が荒れ、漁は取りやめになってしまった。私はちょっとがっかりしたが、常に思い通りにならないのが自然相手の漁という仕事なのだな、ということを身をもって知った。
漁師の仕事は潜るだけではない。中村さんは蔵の中を見せてくれた。敷地内に二つの蔵がある築60年の古い家が中村さんの漁のベースだ。蔵の狭い階段を登ると網やおもりなどがたくさんあり、漁がない時はここに上がって網を繕ったり、仕掛けを作ったりするのだ。「道具には高価なものもありますから、あまり写真を撮らないで下さいね」と中村さんはちょっと笑っていった。「企業秘密」というところだろうか。
蔵の一階は獲ってきたものを貯蔵するスペースで、これまた所狭しとたくさんの洗濯干しハンガーが並んでいる。もう少ししたら旬になるワカメを干す準備だ。漁を終えた午後にこれらをやっていると、あっという間に一日は終わってしまう。
蔵の二階は網などを繕うスペースだ。
つまり漁師は仕事がない時などない、と言ったほうがいいくらいなのだ。さらに時間が空いた時は、体をよく休めるのも仕事のうちである。「漁師の仕事って、自然が相手だから、失敗を隠すことができない。そういう厳しいところで自分が毎日をどうやって生きるかを頭の中で常に考えていないとできない仕事なんですよね」と中村さんはいう。
中村さんは現在41歳。海のない埼玉県に生まれた中村さんが素潜り漁師になるためにこの町へとやってきてから、早14年が経とうとしている。
ちなみに私は海がある町で育ったが、「浜の漁師」といえば、子どもの頃から何となく、町に住む人に比べるといかつく、荒っぽい……というイメージがあった。鳥取ですごく面白い仕事をしている人がいるから、と人に紹介されて初めて中村さんに会った時、怖い人だったらどうしよう、とちょっと緊張したのを覚えている。しかし予想に反して中村さんは「ものすごく言葉遣いが丁寧な人」であった。確かに浅黒く日焼けして、がっちりとした体格ではあったのだが……。
今回の取材でその理由が分かった。聞けば中村さんは高校卒業後、新宿の老舗レストラン「中村屋」のバーテンダーとして3年間働いたのだそうだ。サービスマンだった過去を聞き、なるほど……と、最初に感じたギャップにも納得がいった。
仕事はそれなりに順調だった中村さんだが、21歳の時にもっと別の道があるのではないだろうか、そしてできれば大好きな海に関わる仕事がしたいと思い立ち、思い切ってレストランを退職する。ここから中村さんの自分探しの旅が始まった。
自転車で全国を旅したり、海洋環境の研究ができる大学を受験してみたり、伊豆の旅館に住み込みで働いたりと、天職を求めてさまざまなことをした。しかし、そのどれもがなかなか上手くいかなかった。サービスマンとしてある程度のポジションにあったレストランを辞めるとき、上司に言われたキツいひと言「仕事を辞めるということは、また一から、底辺から始めるということだよ」という言葉を思い出しては、ああ、仕事をやめなきゃよかった……、と後悔することもしばしばだった。
そんなある日、通勤中の電車の中で、求人情報誌の広告に中村さんは目を奪われる。そこには「中山町(現・鳥取県大山町)での素潜り漁師募集」という見出し。
これだ! 自分が探していたものは! 中村さんは迷わず応募することにした。単身、縁もゆかりもない鳥取県へ、これまた全く経験もツテもない、素潜り漁師になるために。27歳の時だった。「自分探しの旅」を始めてから、6年目のことだった。
丸い石が連なる浜は滑りやすい。
Iターン移住者でありながら、今では中堅の漁師として後輩の漁師たちからも慕われている中村さんだが、こうなるまでは、むろん並々ならぬ苦労があった。
27歳で鳥取に移住してからは、まずは親方となる先輩漁師について、1年間の厳しい修行を受けた。初めは浮力の強いウェットスーツを着たままでは潜ることさえもままならず、おもりを付けて潜る練習をしたという。
決まった漁場で生き物を獲り合う素潜り漁は、もともと、よそものは入れない縄張りの文化だ。技術は習うより盗め、という不文律がある。しかし今は日本全国どこでもそうであるように、漁業に携わる人は減る一方だ。中村さんの親方や他の先輩漁師たちも、みな跡取りがいない状態だった。そんな中でかわいがられながらも漁師としてのスパルタ教育を受け、分からないことを少しずつ覚えていった。
その後、鳥取県の漁業担い手研修を3年間受けて本格的な漁を学び、4年目にようやく独立した。海のこと、漁のことがやっと一通り分かってきた頃だった。
自分は体力だけはあるから大丈夫だろう、と思って始めた漁の仕事だったが、それは想像以上にハードで、体重が3ヶ月で10キロ以上減ってしまったこともあった。それでも当時を振り返ると、「辛かったけど、海が好きで選んだ仕事だから、潜ることが楽しく楽しくてしょうがなかったですよ」と中村さんはいう。
素潜り漁師として、順調にステップアップしていったように見える中村さんだが、 実は一度、命の危険を感じるような経験をしたことがある。それは漁師になってまだ3年目、29歳のころだった。
漁師として仕事が面白くなり、体力、気力ともに充分だったある日。中村さんは「よし、他の人が行けないところまで行ってやろう!」という気持ちから、普段は行かない、海岸から離れた潮の早いポイントへと出かけた。
「あのときは自分は常に体を鍛えているから大丈夫、というへんな自信がありましたね」 しかし素潜りというのは、すぐにではなく後からじわじわと疲労が出てくるものらしい。中村さんは岸から700メートルほど離れた水深5,6メートルの地点で、ふいに意識を失いかけた。怖くなり、なんとか海面に上がって桶につかまって海を漂いながら持ちこたえ、そのうちにたまたま潮目が変わったので戻ってくることができたのだという。もし潮の流れが変わらなかったら……、と問うと「戻って来れなかったかもしれませんね」と中村さんはいう。
「漁では他人を気にしたら絶対ダメだし、過信は身を滅ぼすんですよ」と中村さんは続けた。周りの漁師は仲間でもあるが、同時に良きライバルでもある。どうしても他の漁師の行動が気になる。当然だが、漁ではどれだけ獲れるかで収入は違ってくる。だが目先の欲に惑わされて無理をすると、海の中で危険な目に遭う確立は高くなるのだ。
また、漁場の獲物を捕りすぎてしまっては、生き物が減り、いつかは漁そのものができなくなってしまい、自分たちの首を絞めることになりかねない。海の中でたくさんのサザエやアワビを前にした時、技術があればそれを根こそぎ獲ることは可能だ。だけど「自分の中に、それを止めるもう一人の自分がいるんですよ」と中村さんはいう。
実際、中村さんが潜り始めた頃に比べると岩牡蠣などが、かなり少なくなってきているという。漁業では常に自然と生き物とのバランスを考えていかないといけない。こうして中村さんは自らの体で少しずつ、漁と海の厳しさを学んでいった。
漁師の手は大きく、ぶ厚い。
中村さんが水揚げするものの中でも、ひときわ人気があるものに春先の新鮮なワカメがある。「このワカメは一年のうち4~5月の間にしか採れない新芽で、これが美味しいのは大山のおかげなんです」と中村さんは言い出した。しかし、なぜ海産物の美味しさに山が関係してくるのだろうか?
実は世界中のどこでも良質の海藻が採れる場所と言えば、山からの雪解け水が流れ込む場所なのだそうだ。ここ大山町の海にも、広大なブナ林に囲まれた大山を源流とする甲川から雪解け水が流れ込む。それは単に美しいだけではなく、山と森の豊富なミネラル分を含んでいる。その川の水と海の水が出会うところに、美味しい海藻が育つというわけだ。それをエサにするサザエなどの貝類も、同じように美味しくなる。
大山町の海域の水質が良いのには、その地形にも大きな理由がある。それは山と海との距離が非常に近いということ。大山一帯は国立公園に指定されているため、民家などからの生活排水が流れ込むことも少ない。甲川は人の住む地域をほとんど通らずに、上質な水質を保ったまま海に流れ込むのだ。
夏の甲川上流。大山を源流としてブナ林の中を流れてくる清流はやがて海へと注ぐ。
このように豊かな自然が保たれている大山町だが、それでも海中の生き物たちは年々、減少している。「土と水と木を粗末にすると、必ず自分たちに悪い影響となって返ってくる。みんな、それにきちんと向き合っているのかな?」という中村さんはブナ林を保全する活動にも参加している。最近では自然保全の活動を手伝ってくれる若手漁師も出てきた。今では忙しい中村さんに代わって、仲間を集めて定期的に海岸掃除を行う後輩漁師もいる。「同じような価値観を持っている仲間が増えてきたのはありがたいですよね」と中村さんは言った。
一方で中村さんには、過疎化が進むこの地域をなんとかしたいという思いも強い。「ただ自然が豊かなだけでなく、この地域をもう少し開くことによって、暮らしていて楽しい場所にしたいんです」と中村さんは語る。
中村さんが何のゆかりもない大山町に移住して、素潜り漁という未知の仕事を続けてこられたのは、この地域社会が中村さんたち若き移住者を受け入れてくれたからだ。今度は自分たちが地域づくりに関わって、その恩返しをしていきたい、という気持ちが中村さんにはある。
移住者でありながら、体一つで素潜り漁師となった中村さんの生き方に影響を受けている人もいる。中村さんに直接連絡をとってきて、この大山町でIターン漁師になった若者もいるほどだ。中村さんは漁師としてだけではなく、鳥取の田舎暮らしに憧れてやってきた移住者たちの良きアドバイザー役もかってでている。
このように忙しい日々を送っている中村さんを支えているのが、奥さんの加奈子さんだ。加奈子さんは沖縄に旅行している時、漁業担い手研修の合宿でやはり沖縄に来ていた中村さんと出会ったのだという。大阪で生まれ育ち、車の運転もできず、仕事は事務……、都会暮らししか知らなかった加奈子さんにとって、「漁師の奥さん」という仕事は、想像以上に、もしかしたら中村さんが素潜り漁師になることよりも、もっと大変なことだったのかもしれない。
太陽の下で働くのは大変なことだった、と笑う加奈子さんに、中村さんの親方の奥さんが漁業のことから田舎での生活のこと、集落のことまで全てを教えてくれた。そんな加奈子さんだが、今ではこの暮らしが楽しく、これから都会から移住してくる人たちに自分が親方の奥さんから習ったことを伝えていきたい、という。
それにしても都会育ちの加奈子さんが、まだ漁師として一本立ちしていなかった中村さんについていくことに不安はなかったのだろうか? と問うと、加奈子さんはこう答えた。「両親が店をしていたので、二人で働けば食べていける、ということは知っていましたから」
中村さんもまた、加奈子さんがいなければ漁師の仕事はできない、と言い切る。特に獲ってきた魚やワカメの加工を担当してくれる加奈子さんは、なくてはならない仕事のパートナーでもある。
夫婦が共に同じことを生業として暮らす― 今より一次産業が盛んであった昔はどこでも当たり前にあるシンプルな暮らし方だったであろうが、働き方が多様化した今の日本ではなかなか見られないカップルのあり方である。しかし、そうして生きていくことを幼い頃から知っていた加奈子さんもまた、両親と同じように中村さんという伴侶を見つけたということは素敵だなと思うし、いつも一緒で仲の良い二人を見ていると、なんだかいいなあ……! と思ってしまうのであった。
中村さんは現在、いち漁師としてだけではなく「漁師中村」という法人を立ち上げ、漁獲から、ワカメやサメなどの加工、そして流通、販売までを手がけている。いわゆる今流行りの六次産業だ。六次産業とは、農業者や漁業者が収穫物をそのまま売るのでなく、加工、販売まで手掛けることで付加価値を高めることを指し、一次産業の活性化、そして農村や漁村での経営に多角化をもたらすとして期待されている。
例えば前述のワカメは、天日干しにしてから温度と湿度が保たれた古い蔵に貯蔵すれば、一年はもつという。今でこそ人気がある大山町のワカメだが、実は中村さんが採ってくるまでは、ここ大山町でさえもその美味しさが知られていなかったのだという。「美味しくないと思われているサメも、ひと手間かけて調理すれば上質の白身の美味しさに気づくんです。大山町の海の中にそういう美味しいものがたくさんあるのに、知らないで食べないのはもったいないことだな、と思って」。もともとサービスの世界で働いていた中村さんである。ただ新鮮な海産物を獲ってくるだけではなく、美味しいものをお客さんのもとまできちんと運ぶ、というこだわりがあるのだ。
漁師から起業へと、どんどん新しいことへと挑戦し続ける中村さんだが、では次の目標は一体なんなのだろうか? 聞けば、45才までは立ち上げた法人の事業者としてがんばりたいけれど、それが一段落したら、いつか水深30メートルまで潜れるような、そんな漁師になりたいのだという。今の中村さんは水深8メートルくらいまでのところで仕事をしている。
ちょっと意外な答えではあったが、伝説のフリーダイバー、ジャック・マイヨールに憧れて素潜り漁師になった中村さんらしい目標とも言えよう。それにしても素潜りで水深30メートルとは、陸の上ではなんだか想像できない世界である!
確かに漁師の仕事とはアスリートのような側面もありますよね、と私が口を挟むと、「それはちょっと違いますね」と中村さんは遮った。「もちろん、筋力や泳力は大切で、しっかりとトレーニングした時期もあったけれど、アスリートのような価値観ばかりでいてはダメなんですよ」と中村さんは熱く語り出した。
泳力よりも、獲物がいるところまで辿り着く! という集中力、自分を律するといった精神力のほうがより重要であり、逆に言えば歳をとって体力が落ちたとしても、そこからなお技術を向上させる事ができる、それが素潜り漁なのだ―。
そんなふうに海のこと、漁のことを楽しそうに、そして真剣に話す中村さん。どんなに忙しくなっても、この人はあくまで一人の漁師として、海に潜ることが本当に好きなのだな、と中村さんの夢のある「目標」を聞きながら微笑ましく思った。
初めて中村さんに会った日、獲れたての岩牡蠣を食べさせてもらった。岩牡蠣は美味しい上に、食べるとすぐ体に力が漲るような気がして、私の大好物である。そのことを言うと中村さんは「松本さんは体力を使うカメラマンだから、そういうことが体でわかるんだね。体力を使う人は、ミネラル豊富な牡蠣はたくさん食べていいんですよ」と言ってくれた。
浜で海藻を探す中村さん。
「美味しいから食べてみて下さい」と石に張り付いた海藻を差し出す。
素潜り漁とは、体一つで海の恵みを人の口へと運ぶという、昔ながらの非常にシンプルな生産である。だがそれは食べ物を通して自然環境と人との関係性を探り、それを私たちに伝えてくれる、奥の深い仕事でもあるのだ。そこがどんなに厳しくとも、我々に必要なものを海が育ててくれる限り、中村さんは今日も鳥取の海へと潜り続ける。
◎ ライター/写真家 松本美枝子(まつもとみえこ)
1974年茨城県生まれ。生と死、日常をテーマに写真と文章による作品を発表。
主な受賞に第15回「写真ひとつぼ展」入選、第6回「新風舎・平間至写真賞大賞」受賞。
主な展覧会に、2006年「クリテリオム68 松本美枝子」(水戸芸術館)、2009年「手で創る 森英恵と若いアーティストたち」(表参道ハナヱ・モリビル)、2010年「ヨコハマフォトフェスティバル」(横浜赤レンガ倉庫)、2013年「影像2013」(世田谷美術館市民ギャラリー)、2014年中房総国際芸術祭「いちはら×アートミックス」(千葉県)、「原点を、永遠に。」(東京都写真美術館)など。
最新刊に鳥取藝住祭2014公式写真集『船と船の間を歩く』(鳥取県)、その他主な書籍に写真詩集『生きる』(共著・谷川俊太郎、ナナロク社)、写真集『生あたたかい言葉で』(新風舎)がある。
パブリックコレクション:清里フォトアートミュージアム
作家ウェブサイト:www.miekomatsumoto.com