サル、鹿、イノシシ、ときどき熊。
群馬県の東の果て、周囲を緑濃い山々に囲まれたある集落では、いろいろな野生動物が人里を闊歩しているという。そもそも人も少なく、聞こえてくるのは鳥や虫の鳴き声ばかり。まさに秘境という言葉がぴったりのこの群馬の奥地で、6人の若者たちが飛んだり跳ねたりくるっと回転しながら日々を過ごしているそうな。
こんな風に書くとまるで戦国時代の忍者修行のようだけど、若者たちは現代の忍者見習いと言えなくもない。彼らは日本で唯一のサーカス学校の生徒なのだ。
疑問は山ほどある。
なぜ、群馬県民もなかなか足を踏み入れないような場所(失礼!)にサーカス学校が?
どうやって成り立っているの?
生徒たちはどうしてこの忍者の里、いや学校にたどり着いたのか?
どんな授業をしているのか?
卒業したら、その先の人生は?
尽きせぬ謎の答えを探りに、僕は東京から車を走らせ、学校がある群馬県みどり市東町沢入(旧勢多郡東村)へ向かった。 首都高、東北自動車、北関東自動車道を経て、太田藪塚ICへ。高速を降りてからしばらくは東京でもよくみるチェーン店が大通りに立ち並び、関東近郊にきたな、というぐらいの感想しか抱かなかったけど、渡良瀬渓谷沿いに入ると一気に景色が変わった。
山の合間に作られた細い道が続き、視界に入るのは木々と渓谷のみ。当日の天気が驟雨だったせいか霧も出てきて、東京から車で3時間の場所とは思えないほど「遠く」に来た気がした。この雰囲気なら、野生動物がぞろぞろと道を歩いていても納得できる。
学校の正式名称は「沢入国際サーカス学校」。ホームページには廃校になった小学校の体育館を練習場に使っていると書かれている。
住所を入れてもカーナビがアバウトにしか目的地に連れて行ってくれない地域なので、ホームページに載っていた地図を参照にする。
午前9時45分、少し迷って学校に到着した頃には、雨が上がって晴れ間が差してきた。
廃校というだけあって、木造の校舎は趣があるという表現を少し通り越した廃れ具合。肝試しをしたら怖そうだ。
でも、体育館を訪ねると印象が変わった。
体育館も確かに古い。生徒自ら屋根の雨漏りを修理するほど年季が入っている。正面入り口に設置された時計は、恐らくもう何年も前から2時58分で止まっている。それでも人が定期的に使っているからだろう、建物がしっかりと呼吸している感じが伝わってきた。
2001年に廃校になった小学校。校舎にはキツツキがあけた穴が無数にある
体育館の入り口で、事務局長の関口渉さんと挨拶を交わす。少しドキドキしながら中に入ると、運動着姿の若者たちが思い思いに準備運動をしていた。床にはマットが敷かれ、跳び箱が置かれている。天井には水銀灯。そこには、長らく目にすることもなかった、でも懐かしい体育館の風景が広がっていた。
2001年創立の沢入国際サーカス学校はいわゆる学校法人ではなく、NPO法人国際サーカス村協会が運営している民営スクールだ。 学校は欧米と同じ9月スタート。授業は前期・後期で行われ、9月半ばから12月が前期、3月半ばから7月が後期になっている。4年制で、2年間で基礎体力、筋力をつけ、残りの2年で技術や芸を学ぶカリキュラムだ。
生徒たちは月曜から金曜の5日間、90分の昼休みを挟んで10時から17時までトレーニングを積む。
授業の期間は年間6ヵ月とはいえ、毎日のスケジュールはかなりハードだ。
だからこそ、気になる。
3年生の石黒大智さん。流れるような手つきが印象的だった
なぜこの地に日本唯一のサーカス学校があるのか。
関口さんに尋ねると、この学校には夢とロマンが詰まっていることがわかった。
設立のきっかけは26年前、まだこの地域が勢多郡東村という名前で、関口さんが村の公務員をしていた頃に遡る。
「勢多郡東村は童謡の『うさぎとかめ』『花咲かじじい』『金太郎』を作詞した石原和三郎が生まれた村なんです。それで平成元年(1989年)に、村で童謡ふるさと館という施設を建てました。子どもから大人まで楽しめる施設を作ろうということでいろいろなイベントを開催していたのですが、その時に西田さんと知り合いました」
西田さんとは、沢入国際サーカス学校の会長・西田敬一さんである。当時、西田さんは世界中のサーカス、パフォーマーを日本に招へいし、公演やイベントを企画する事業を手掛けていた。関口さんが童謡ふるさと館の担当者として西田さんにイベントを依頼したのが縁で二人はすぐに意気投合した。
知り合って半年ほどしたある日、西田さんは関口さんに「サーカス村構想」を話して聞かせた。一つの地域にテント小屋、宿舎、動物小屋、練習場、ゲストハウス、レストラン、ガソリンスタンドなどを備えた村を作りたいという壮大なプロジェクトである。 関口さんの反応は、素気なかった。
「そんなのできっこないよ」
西田さんはそこで諦めるような男ではなかった。ことあるごとにサーカス村について語り続けた。あまりの情熱に、次第に関口さんも心が動かされ始め、「そこまで言うなら、できるところからやってみよう」ということで、1997年、村に西田さんが所有する膨大な資料を集めたサーカス資料館ができた。
そして2001年、NPO法人国際サーカス村協会が設立され、沢入国際サーカス学校ができたのである。
いずれこの学校からシルクドソレイユで活躍するような卒業生が出て、その子がいずれまた学校に戻ってきて生徒の指導をするというサイクルができたら―。
この時、西田さんと関口さんは同じ夢を共有するようになっていた。
福岡の進学校から入学した中村篤史さん。「大道芸で食べていきたい」と語る
目標は大きいほうが挑戦し甲斐がある。
でも、入学のハードルを高くしたら子どもが集まるのかわからない。
そこで、入学資格は2つになった。
・自炊ができること
・中学を卒業していること
授業料も年間30万円と低めに設定している。
群馬県民でも気軽に通える場所ではないので、大半の生徒は親元を離れ、学校の近くのアパートや空き家を借りて一人か、ルームシェアで暮らすことになる。料理、洗濯、炊事、掃除などを一通り自分でこなさなくてはならない。だから、だいたい15歳以上が良いだろう、ということで中学卒業が条件になっている。多くは高校卒業後に入学してくるけど、実際、15歳で入学した子もいるという。
高校生の時から趣味でジャグリングをしていたという吉川健斗さん
「いろいろな子がいましたよ」
事務局長として学生たちの生活を見守る関口さんは笑う。
「北は宮城から南は鹿児島まで、本気でサーカスのパフォーマーや大道芸人を目指している子もいれば、それぞれのプライベートな事情があって、この学校に入学する子もいます。だから、性格もパフォーマンスのレベルもバラバラです。ある時なんて、学校から『○○がいない!』と電話があってね。その子は家に帰りたくなって学校を抜け出して、渡良瀬渓谷鉄道の線路を歩いているところを警察に保護されました。その子の実家は鹿児島なんですけどね。結局、東京に叔父がいるということで連絡して私が東京まで送り届けましたよ。あれは大変だったなぁ」
もちろん、こんな事件が頻繁に起きているわけではない。ほとんどの学生は日々、トレーニングに励んでいる。まだシルクドソレイユに加入した卒業生はいないが、高いレベルで勝負に挑む生徒もひとりやふたりではない。
6月下旬に入学したばかりの高橋宏季さん。「技を極めたい」と入学を決意
卒業生のひとりはアメリカで開催されるジャグリング世界大会で3位に入った。日本三大サーカスのひとつで大阪に拠点を置くポップサーカスに席を置く卒業生もいる。最近、経営破たんしてしまったけど、キグレサーカスでも1名、働いていた。プロの大道芸人やパフォーマーとして活躍する卒業生も数名いる。
能力が高い生徒は、学校が休みの夏と冬にはイベントや路上パフォーマンスなどに出演して、半年分の生活費を稼ぐそうだ。
どれぐらい稼げるものなんですか?
ちょっとしたアルバイト程度の収入なのかと思いつつ何気なく尋ねたのだけど、ニコッと微笑んだ関口さんの答えを聞いて、「ええっー!!」と声を張り上げてしまった。
「僕は生徒の確定申告の手伝いもしているんだけどね。これまでで一番稼いでいた子は、年収が1300万円ぐらいありましたよ。投げ銭だけで年間に7、800万ぐらいあるって。僕も驚きました」
欧米に比べてサーカスや大道芸が根付いていない印象のある日本でも、実力さえあれば一流の稼ぎを得ることができるのだ。 サーカスのパフォーマーや大道芸人を目指す若者にとっては夢のある話だろう。
創立から13年が経ち、現在の生徒数は6名。最盛期は生徒が19名いたそうで、関口さんにとっては「ちょっと寂しい状況」だという。でも僕は、群馬の山奥のサーカス学校に学生が途切れることなく在籍し、しかもプロの世界で通じるパフォーマーを輩出していることに驚いた。西田校長と関口事務局長が蒔いた種は、少しずつ花開き始めているのだ。
喜多和裕さんの両親は「好きなことならやってみたら」と応援してくれているそう
10時半頃、この学校唯一の先生が体育館に入ってきた。生徒を指導するのは、ウクライナ人女性のテシェンコワ・ナジェイジダさん、61歳。アクロバット体操の選手として3度の世界選手権優勝を誇る、ウクライナのキエフ国立サーカス学校の元教師だ。生徒たちには「ナージャ先生」と呼ばれている。体育館の入り口にはメダルを山ほど首に巻いたナージャ先生の若かりし頃の写真が飾られている。
体育館に飾られているナージャ先生の若かりし頃の写真。メダルの多さに驚愕
なんでこんなにすごい経歴の人が、この山奥に!?
ナージャ先生を連れてきたのは、校長に就任した西田さんだった。世界のサーカス業界に通じている西田さんは、学校設立時、グローバルなネットワークを活かして、ウクライナのキエフ国立サーカス学校と協定を結んだ。ナージャ先生はそこから派遣されてきた。
「ナージャ先生が来た時は、大変でした。先生はロシア語しか話せなくて、私たちは誰もロシア語がわからなかったから、先生に露和辞典を渡して、こちらは和露辞典を持って、なんとか会話をしていたんですよ」(関口さん)
先進国・日本で仕事ができると思って来てみたら、職場は近くのショッピングモールまで車で90分という群馬の外れで、誰一人として言葉が通じる人間がいない。
僕が思うに、元世界チャンピオンを講師に迎えるにしては残念な環境だ。話が違う! と憤慨して帰国してもおかしくない。 でもナージャ先生は、そうしなかった。開校時から指導を始めて今年で14年目。ずっとひとりで生徒たちを見てきたのだ。 13年の間に、独学で日本語も憶えた。
午前中の授業では、ナージャ先生の指導のもと、全員がマット上で前転やバック転、宙返りなどアクロバットな基礎訓練を行う。
真剣な眼差しで生徒を見つめるナージャ先生からは、「チガーウ!」、「オーケー!」、「モウツカレマシタカ?」と日本語で指示が飛ぶ。生徒たちも日本語で答える。
それにしても、先生の指導は思いのほか厳しかった。
例えば、まだ入学して間もない生徒に、ボールの上に筒を置いてその上で立ち上がるように指導していたときのこと。生徒が胴に巻いたコルセットのようなものにはロープがつながっていて、天井の滑車を通してナージャ先生がロープの端を持っている。要するに、その生徒がバランスを崩してもナージャ先生がロープを持っている限り、派手に転んだりすることはないのだが、生徒はなかなか立ち上がることができなかった。
すると、「ワタシモッテルカラコワクナイ! ハヤクタッテ!」と一喝する。恐らく現代の日本の学校では目にすることのない迫力で、近くで聞いている僕が思わず、ビクッとしてしまうほどだ。ナージャ先生は常に全員に目を配っていて、ちょっとでも気を緩めているようなそぶりを見せた生徒には、大きな声で名前を呼んで気合を入れなおす。
ある生徒が前方転回の練習をしている時には、「モット、テトアシノバシテ!」と鋭く指示をしていた。その生徒が次に前方転回するときに指示を反映できていないと、「チガーウ! モット、テトアシノバシテ!」と大きな声が飛ぶ。
関口さんは、「どんなに素人でも3ヵ月で身体が変わる」と言っていたけど、この熱血指導なら納得だ。この学校に入学するまでアクロバティックな動作などしたこともないという生徒もいるなかで、ナージャ先生の姿勢からはどんな生徒に対しても指導に手を抜かない、妥協しないという強い思いを感じた。
ナージャ先生は学校が休みの時期にはウクライナに帰国しているそうで、3ヵ月サイクルで日本とウクライナを往復している。職場環境や先生の年齢を考えると決して楽な生活ではないだろうが、この13年で先生と日本や学校とのきずなは深まっていった。
これまで何人かの学生が、ナージャ先生の紹介でウクライナのサーカス学校に留学している。それが縁となり、ナージャ先生の娘で同じくウクライナ国立サーカス学校出身のオーリャさんは卒業生のひとり、天野真志さんと出会い、結婚。今では日本を拠点にして夫婦でコンビを組んで日本を巡っているのだ。
ナージャ先生の娘オーリャさんは卒業生と結婚し、日本でパフォーマーとして働く
僕が訪ねた日、ちょうどオーリャさんと天野さんが生徒たちと一緒に練習をしにきていた。2人のコンビネーションをナージャ先生が指導する場面を見て、ナージャ先生もオーリャさんも、すっかり沢入での生活に馴染んでいるんだな、と感じた。
13時半から始まる午後の授業は、自分の技を磨く時間になる。
午前中は体操選手のトレーニングのような雰囲気だったけど、午後はそれぞれが体育館の中でジャグリング、サーカスのパフォーマンスを練習するので、一気に華やかになった。両手の指先でボールをクルクルと回し続けている生徒もいれば、6つの帽子をお手玉のように華麗に操っている生徒、大きな球の上で縄跳びしている生徒もいて、見飽きない。生徒たちものびのびとしていて、心なしか、ナージャ先生の表情も緩んでいる。
先生の娘オーリャさんと夫の天野さんはさすがのプロで、軟体動物のように両足を身体の前に出したり、片手で逆立ちをしながら足でポーズを決めたり、テレビで見たことあるような動きを丁寧に練習していた。常人には考えられない動作の連続で、思わず「スゲー!」と呟きながらカメラのシャッターを連打してしまった。
オーリャさんとコンビを組んで日本を巡る卒業生の天野真志さん
16時頃になると、生徒たちが再びマットを敷き、その前に跳び箱用のジャンプ台を置いた。何が始まるのかと思っていたら、勢いよく走りこんで横向きに飛んで回転! 手を使わない側転のようなジャンプを繰り返しているのを見ると、本当に忍者のように見える。
日本では、サーカスや大道芸ってどちらかというと子ども向けのイメージがあるけど、パフォーマンスの練習を見ているだけでワクワクしてくる。大人が見ても十分に楽しめるものなのだと実感した。
今回、生徒6人と話をして驚いたのは、入学の背景やパフォーマンスのレベルの違いはあれど、それぞれがプロを目指していること。なかでも印象的だったのは、28歳の油布直輝さんだ。20歳の頃から成田空港で飛行機の整備士をしていた油布さんは、東京でシルクドソレイユの公演を見た時、日本人が活躍する姿を目の当たりにして、「僕もシルクドソレイユのパフォーマーになりたい」と思い立ち、仕事を辞めて26歳の時にこの学校に入学した。
「家族や友達には、よく考えろ、と言われました」と苦笑する。幼い頃からサーカスが好きだったことを知る家族や友達にとっても、無謀な挑戦に思えたのだろう。それでも「世界で活躍したい」という急激に燃え上がった熱が冷めることはなかった。
油布さんが練習している姿はとてもストイックで、一分も、一秒も無駄にしないという気迫すら感じた。いま取り組んでいるのは、大きな輪のなかで両手両足を踏ん張り、ぐるんぐるんと回転するパフォーマンス。この技を習得するために、自分でカナダから器具を輸入したそうだ。彼の本気度が伝わってくる話である。
とはいえ、シルクドソレイユには世界からトップクラスの人材が集う。2年前まで単なるサーカス好きの素人だった男が、世界最高峰のサーカス団を目指しているのである。
突拍子もない夢物語だと思うだろうか?
正直に告白すれば、この学校のことを何も知らず、東京のオシャレなカフェのようなところで油布さんの話を聞けば、僕も「でっかい夢だな」と感心しつつ、あまり現実味のない話だと思ったかもしれない。
でも、「群馬の山奥にある日本唯一のサーカス学校」というシチュエーションだと、ありえるかもしれない、と思えてくる。
思い出してほしい。
そもそも、沢入国際サーカス学校は西田校長の「国際サーカス村構想」という「できっこない」話からスタートしている。
野生動物と共存しているような過疎の村の廃校で、この13年間、日本各地から若者が集い、日々、真剣に技を磨いているということもまるで漫画の世界のような設定だ。
生徒が山間を走るローカル線・渡良瀬渓谷鉄道の線路を歩いて脱走するという映画『スタンドバイミー』のような事件もある一方で、年間に1300万円を稼ぐ生徒や、ジャグリングの世界大会で3位に入る卒業生がいる。
ウクライナの英雄的なアスリートだったナージャ先生も、小説の登場人物のようだ。だいたい、ウクライナから一流の先生を招へいするのに通訳もおらず、露和辞書を渡すというのはコメディのような話である。それでも真摯に指導を続けるナージャ先生のもと、多様な背景を持つ生徒たちが成長していき、その教え子のひとりと先生の娘が結婚するという展開は学園ドラマになりそうだ。
何が言いたいのかというと、沢入国際サーカス学校自体が非現実的な存在なのである。だから、シルクドソレイユに加入する生徒が現れたとしても、「あの学校ならあり得るかも」と納得してしまうような説得力があるのだ。
何かと慌ただしい世の中から隔絶された別世界で、これからもナージャ先生と生徒たちは、妙にドラマチックな物語を紡いでいくのだろう。この唯一無二のサーカス学校から、いずれ、世界を驚愕させるようなパフォーマーが現れたとしても、僕は驚かない。
沢入国際サーカス学校では12月19、20日に無料でパフォーマンスの発表会を行う。一般の観覧も可能(要問い合せ)
ライター 川内イオ
1979年生まれ、千葉県出身。広告代理店勤務を経て2003年よりフリーライターに。
スポーツノンフィクション誌の企画で2006年1月より5ヵ月間、豪州、中南米、欧州の9カ国を周り、世界のサッカーシーンをレポート。
ドイツW杯取材を経て、2006年9月にバルセロナに移住した。移住後はスペインサッカーを中心に取材し各種媒体に寄稿。
2010年夏に完全帰国し、デジタルサッカー誌編集部、ビジネス誌編集部を経て、現在フリーランスのエディター&ライターとして、スポーツ、旅、ビジネスの分野で幅広く活動中。
著書に『サッカー馬鹿、海を渡る~リーガエスパニョーラで働く日本人』(水曜社)。