もしかしてあそこじゃないかな、と私は遠くの家を指差した。
運転している友人は、「きっとそうだね、でもたどりつく道がないよ」と困惑したようにハンドルを切った。
私たちはさっきから同じ道を行ったりきたりしていた。
ようやく見つけた田んぼの泥道を通り抜け、目指す家の前に着くと、「よく迷いませんでしたねえ、すごい!」と高山英樹さんが迎えてくれた。
家の中から、奥さんの純子さんと一人息子の源樹君も出てきた。
挨拶もそこそこに、改めて眺めると、その家は巨大な箱のように見えた。工事現場さながらの無骨な佇まいは、いわゆるプレハブ。
名付けるなら『大草原の小さな家』ならぬ『田んぼの中の大きなプレハブ』。
こんなタイトルでは人気ドラマにはなりそうにないが、この家には実に多くのドラマがつまっている。それは、ある木工作家による理想の家づくりの話であり、その家族の記録であり、益子という町全体の大きな物語でもある。
「どうぞ、どうぞ!」と促されて、一歩中に入ると、私たちは目を見はった。無垢材の板張りの広いリビングルームには、光と風があふれていた。
広々としたリビング。インダストリアルな骨格に、個性的な家具やアート作品が調和する。
「美しい~!」
しきりのない大空間には、木製のダイニングテーブルや、大きなソファがゆったりと置かれている。
広さは100平米以上あるだろう。窓の外には遠くまで田園風景が広がり、風が吹くと桜吹雪が雪のように舞った。窓ぎわに大きなハンモック。そして、絵画やアート作品が賑やかに部屋を彩っている。
お客さんも寝てしまう特大ハンモック。音楽を聴くのにも最高。
無愛想な外側と温かみあふれる内側のコントラストに、しばし呆然とした。
木製の家具や道具の多くが、木工作家・高山英樹としての作品だ。いや、家具だけではない。実はこの家も、彼の作品なのだ。骨格のプレハブ以外は、すべてが手作り。本当に、すべてが―。
そしてこの家は、築13年目を迎えた今日も未完成なのである。
高山ファミリーが、宇都宮から益子に移住したのは、現在18歳の源樹君が小学校入学直前の時だった。
益子にオープンするオーガニックカフェの内装に、高山さんが関わったことがきっかけ。毎週のように通ううちに、自分もここに住みたいと思うようになる。
ある日、偶然に里山の麓にある空き家となった古民家を見かけた。
ここ、いいなあと眺めていたら、近所のおじいさんがぶらぶらと歩いてきた。その人は、「この家の主は隣町に住んでるよ。興味あるなら今から案内する」と言い出し、なんとそのままおじいさんと一緒に、家の主をアポなしで訪ねることに。
がぜん盛り上がって、「あの家を借りたいです」と頼んだが、その日は「今は貸してない」と断られてしまった。
ところが後日、自然に話は動き出した。
一ヶ月ほど経ったある日、オーナーの方から「会いたい」と連絡があった。そして会話の中で、高山さんが石川県の能登の出身だと知ると、元々はこの話に乗り気ではなかったおばあさんが「あの土地はもともと北陸からきた人のものだった。何かの縁を感じる。土地をお譲りしましょう」と、まさかの急展開。
そして、高山ファミリーは、何かに導かれるように200坪の土地を購入した。
家族で草地の上に立ってみた。
目の前には青々とした田園風景が広がる。
「ここをリビングにしよう、ここに窓をつけよう。気持ちいい家になる」と想像をふくらませる。
そう、ここまでは分かる。しかし、その後に高山さんがしたことは、一風変わっている。
それは、自分の設計図を元に、二階建てのプレハブ小屋を建ててもらうことだった。
楽しそうに思い出を語ってくれた高山ファミリー。
待望の新居に足を踏み入れた日のことを、源樹君はこう思い出す。
「なーんにもなかった。家の中はしきりがなくて、窓の一部にはガラスも入ってなくて、風が吹き抜けてた。『これさ、どうするの?』って聞いたら、『大丈夫、とりあえずブルーシートかぶせとくからさ!』だって」
窓ガラスだけの問題ではない。そこには、台所もなければ、トイレも家具もなく、床はコンパネで、水道も電気も通っていなかった。
純子さんも、当初はかなり戸惑ったようだ(当然だろう!)。
「めちゃくちゃだなあって。でも、この人(高山さん)は、いつも最後はどうにかするんです。だから、きっとなんとかなるって信じてた」
そして家族は、古き良き思い出を次々と語り始めた。
「引っ越してきたばっかりの頃、家庭訪問があったよね」
「あー、そうだったよねえ!」
担任の先生は、きっと度肝を抜かれたに違いない。先生が「どうぞ」と通されたのは、ガランとした家の真ん中に広げられたピクニックセットだったそうだ。
私は思わず身を乗り出した。
「いったいどうやって住んでたんですか!?」
「外からホースで水をひいて、ほら、そこのドアを開けた外に仮設キッチン作ったんですよ」と高山さんは当たり前のように家の外を指差した。「パラソル立てて、コンロを置いて」
毎日がキャンプのような生活。それでも、春は舞い散る桜吹雪を楽しみ、夏は湖面のような水田に感動した。その移り行く季節を感じて、「きて良かった」と高山家はとても幸福だった。しかし、季節は容赦なくめぐる。
「秋になったら純ちゃんが『お願い、寒くなる前にキッチンをどうにかして』って言うので、家の中にホースをひいて料理ができるようにしました」(高山さん)
「そ、そうですか!」と私は妙に感心した。「ずいぶん場当たり的に作っていったんですね」
「そうそう、僕の人生もある種そんな感じです!」
「いやあ、人生が場当たりの人はまだいるかもしれないけど、家がそれって初めて聞きました」
眺めは最高!田んぼに水が張られると、湖畔のように。
最初は、雨漏りもすごかった。「あそこ、洩ってるよ!」「ここもだよ」と言いながら、家族総出でバケツやお皿を置いていく。
「ドリフターズみたいだったよね。雨が降ると勝手に頭の中にドリフの曲が流れたもん」(純子さん)
高山さんは、トタン屋根の隙間をせっせとコーキングで埋める係だ。今は屋根が二重になり、もう雨漏りはしない。
「でも、僕は雨の日がけっこう好きだったよ」
と源樹君はあの頃をなつかしむ。
「まるで『北の国から』そのものだったね!わはは!」と高山さんは豪快に笑った。
その後、ようやく自分たちで水道工事を行い、台所、そしてトイレと上下水道がつながった。「あの時はみんなで感動して、みんなで『水だ~!!』って叫んで!」と純子さんが思い出す。「あの時が、これでなんとかなるって思った時かな」
改めてこの家を見回すと、今となっては「なんとかなる」以上のすばらしい完成度である。こんな風に人は、ゆっくりと、そして自由に理想の家を育てていけるのだ、と新鮮な感動を覚えた。
「そう、僕は、なんでもやればできるという精神。どんな大変なことでも時間かければ自分でできると思ってます!」
自分でやれる。なんでもできる。
そう信じられることは、なんて力強いのだろう!
いったい、どうやって彼はこんなたくましい人になったのだろうか。
もともと高山さんは東京を拠点に、ファッション業界で働いていた。専門学校に在学していた頃から、パターン作りや縫製を専門にし、ステージ衣装などの制作に関わった。時は80年代。ファッションが元気な時代で、いくらでも仕事があった。
お金が貯まったら旅に出て、北米やヨーロッパ、南米、そしてアジアに出かける。お金がなくなると東京で仕事、という気ままな生活を8年ほど続けていた。
手先が器用で、なんでも作れる高山さんは、徐々にデパートのディスプレイやオブジェの制作なども頼まれるようになる。そして、気づけば、家具や内装もお願いしたいという話も増えた。それが木工作家・高山英樹の原点だ。
その頃、純子さんに出会い、今度は二人で旅に出るようになった。この人だったら、楽しく旅が続けられると思い、純子さんは結婚を決意。二人が特に気に入っていたのはバリ島で、長い時には数ヶ月も過ごした。
「旅に出ると時間がゆっくりになる。でも東京に戻ると、時間の流れが早くて。だんだん、ゆっくりなところに住みたいと考え初めた」(高山さん)
そして源樹君が生まれ、3人となったファミリーは、純子さんの実家近くの宇都宮に移り住んだ。
「宇都宮では、仕事ないから農業やってた。クレソン農家を手伝ううちに、農業も面白いなあって」
そこまで聞いて、私は納得した。彼は、服でも家具でも、家でも、食べ物でも、なんでもかんでも自分の手で作ってきた人なのである。だから、この家作りも彼にとってはごく自然なことだった。
今はすっかり家具や内装にシフトした高山さんのお仕事だが、ファッションが恋しくなることはないですかと聞くと、こう答えた。
「僕にとって、服も家具もやってることは同じ。人の体は、まず服に触れて、家具に触れ、家に触れる。だから僕は、テーブルでもなんでも触りながら作ってる。触って気持ちいいところでやめるんです」
私は、いま自分が座っている古材のダイニングテーブルにそっと触れた。それは、触るとすべすべしていて、鈍く光を反射している。どっしりとしているのに主張しすぎない。しっくりと肌にも食事にも馴染む、そんな感じだ。
益子にも、高山さんの作品と出会える場所がいくつもある。
有名な「スターネット」もそのひとつ。スターネットは、池のほとりに、ゆったりと佇むショップやカフェの集まりで、いまや益子のシンボル。ショップの二階の古材の棚やカフェのテーブルが、高山さんの作品である。
高山さんの作品は、実は東京の私の家の近所にもあるらしい。我が家から歩いて三分ほどの鰻と日本酒のお店『蓼』に、大きなカウンターを作ったのだという。最近では、学芸大学近くの FOOD & COMPANY(オーガニックスーパー)内のテーブルや、京都のブティック『NADEL』にあるテーブルを作った。
「僕は、ただ単に家具を作るということはしない。その場所を見に行ってから、空間全体の中で、何をどう作るかを考える」
例えば京都のブティックに行った時は、丸い窓が見えた。その光の中に置かれるテーブをイメージする。見せてくれた写真には、淡い光の中に、流線型の見たことのないフォルムのテーブルがあった。それは、満月の夜に浮かぶ、もうひとつの三日月のようでもある。
高山さんは、ものを作る時にいつも一つのビジョンがあると言う。
「それは、依頼者が笑っている風景。僕はそういう風景に向かってものを作っている。
だからモノをかっこよく作るというのは当たり前。その家具をその場所に持っていった時にみんながぱっと笑顔になる、そういう瞬間に向かってるんです」
あれから、何年もかけてこのプレハブは、本当の家に進化した。大きなガラスのサッシが入り、無垢材の床が敷かれ、薪ストーブが入った。いつしかこの場所には、地元の人だけではなく、日本中、いや世界から大勢の人が集まるようにった。
笑顔が集まる風景を作りたいという願い通りに。
美しき未完成の家へようこそ! 木工作家とその家族、あるいは益子の物語[後編]に続く
川内 有緒 ノンフィクション作家
日本大学芸術学部卒、ジョージタウン大学にて修士号を取得。
コンサルティング会社やシンクタンクに勤務し、中南米社会の研究にいそしむ。
その合間に南米やアジアの少数民族や辺境の地への旅の記録を、雑誌や機内誌に発表。
2004年からフランス・パリの国際機関に5年半勤務したあと、フリーランスに。現在は東京を拠点に、おもしろいモノや人を探して旅を続ける。
書籍、コラムやルポを書くかたわら、イベントの企画やアートスペース「山小屋」も運営。
著書に、パリで働く日本人の追ったノンフィクション、『パリでメシを食う。』他。
『バウルを探して〜地球の片隅に伝わる秘密の歌〜』(幻冬舎)で第33回新田次郎文学賞を受賞。