「あれが最後の人家です」
えっ、とためらう間も無く、車はぐんぐんと、沢沿いの山道を進む。沈み始めた太陽が、すっかり葉を落とした木々の影を、山肌にくっきりと浮かび上がらせている。
私は、そういえば…と、手に握りしめた携帯電話の画面を見た。
「圏外」
分かってはいたけれど、やはりちょっとだけ、どきりとする。これからしばらく電波とはお別れだ。
道路脇の木は進むごとに増え、眼下に見える渓流は透明に澄んでいた。
否が応にも期待が高まり、私はぶるっと身を震わせた。と思ったが……どうやら寒さのせいだったようだ。
東京では、まだ首元に何も巻かずとも平気なくらいだったが、ここはすでに、マフラーも手袋も必要な季節になっていた。
かくして私は、自分の薄着っぷりを後悔することになったのであった。
「タイマグラ」
その見なれない文字の並びに、私は一瞬目を疑った。
どこかの少数部族の挨拶でもなければ、新発売される栄養ドリンクの名前でもない。
そのワードを発見したのは、今回の記事の取材先を探すため、伝統工芸の職人を一心不乱に調べていた時だった。
とある桶職人の紹介ページで、その文字列は異質な空気を放っていた。
「岩手県・タイマグラの桶屋」
どうやら地名のようである。
それも、日本国内の。
私は、市町村合併などを機に思い切ってハイカラな名前に変わったものか、はたまたどこかの企業に買い取られでもしたものか、といぶかった。
しかし、調べてみるとどうもそうではないらしい。
戦後混乱期、国は、食糧難の解消と国民の就業確保のために、開拓事業を推し進めた。
タイマグラは、その頃にできた、小さな小さな開拓集落だ。
2003年にできたカタカナ地名の代表格、「南アルプス市」よりも断然歴史が長い。
その不思議な名前は、アイヌ語が起源ではないかと言われ、解読すると、「森の奥へと続く道」という意味になるという。
その名のごとく、タイマグラは、岩手県のちょうど真ん中あたりにある、早池峰(はやちね)山麓の森の中に位置している。
その奥深さは、この地が昭和63年、国内最後に電気が通じた集落であるということからも窺えるだろう(今からたったの25年前だ!)。
そんな場所で桶を作っているという人物に、私はがぜん興味が湧いた。
記事を読むと、一家代々桶屋というわけでもなければ、タイマグラ出身というわけでもないようだ。
高齢化が進む伝統工芸業界において、年齢も40代とまだ若い。
彼は一体、どんな経緯でこの地に辿りつき、桶を作り始めたのだろうか。
タイマグラでは今、4軒のお宅が暮らしている。
そのうちの1軒が、これから泊まりに行く民宿、「山小屋フィールド・ノート」だ。
車を運転するのは、宿のご主人である、奥畑充幸(おくはたみつゆき)さん。
「冬本番になるとこの道が凍ってね、つるつる滑るんですよね~!僕なんかもここから40メートルくらい落ちたことがあって」
と元気に笑っているから、命は無事だったようだ。
ひげがもじゃもじゃで、眼に力もあるものだから、「ちょっと怖そう……」と思っていたけれど、会ってみればとっても人懐こい、気さくな方なのだった。
軽快な語り口は、大阪の堺出身であることも影響しているのかもしれない。
そして実は、この方の弟さんこそが、今回取材しにいく桶職人、奥畑正宏(おくはたまさひろ)さんなのである。
車は、道路脇のはるか下を流れる薬師川に沿って、村の中心部からどんどん離れていく。
建物がポツリ、ポツリとしか見られなくなってきたころ、充幸さんが一件のお宅を指さして言ったのが、
「あれが最後の人家です」
という台詞だった。ここから先にあるのは、タイマグラで静かに暮らす、4つの世帯だけである。
それからだいぶ上流に来たころだろうか、川にかかる橋を渡るとき、充幸さんに「もうすぐ着きますか?」と尋ねると、「うん。というかもう着きましたよ」と言う。
その瞬間だった。
うっそうとした林の中に、「山小屋フィールド・ノート」は、突然姿を現した。
写真では見ていたが、実際目の前にすると、思わず息をのんだ。
山小屋の元祖のようないでたち、と言えばしっくりくるだろうか。
シンプルな木造の平屋なのだが、なんというか、年季の入り方が半端じゃない。
聞けば、開拓時代に建てられたものをそのまま利用しているという。
建物をぐるりと取り囲む薪が、より一層雰囲気を際立たせ、見る者を圧倒する。
私たちが車を降りるのと同時に、その中から女性がひとり、走り出てきた。頭のてっぺんからつま先まで、なんだかモコモコしている。
「こんにちは~!ようこそいらっしゃい!」
彼女が、充幸さんの奥さんであり、つまりは宿の女将さんでもある、陽子さんだ。
「たくさん着こんでて、びっくりしたでしょ?でも、もう少しするともっと寒くなるから、これ以上にモコモコしてくるんですよ。着膨れしちゃって、すごいの」
そう言ってはにかむ彼女の姿は、少女のようにも見えた。
……にしても、これからもっと寒くなるなんて!
今でさえ、頬に触れる空気が冷たくて、痛いほどだというのに。
――田舎の祖母の家みたいだ。
寝泊まりする部屋は、“客間”なんてよそよそしい響きの似合わない空間だった。
おそらく、普段はここで一家が生活しているのだろう。
本棚には、植物や動物に関する本がいっぱいに溢れており、その上には、地球儀や、謎の鉱石などが並んでいる。
生活用具のようなものも、ちらほら置いてある。
障子の向こうから、「良かったらこっち来て暖まってくださぁーい」という陽子さんの声がする。
その言葉に甘えて隣の居間へ行くと、思わず「あっっったかい!」という言葉が口をついて出た。
熱源である薪ストーブに吸い寄せられるようにして、席につく。
この宿では、お客さんは、滞在時間のほとんどを居間で過ごすという。
冬は、ストーブから片時も離れられなくなるので、ことさらだ。
そうしているとまるで、自分は宿泊客ではなくて、一家の親戚や古くからの友人であるような気がしてくる。
気分は、田舎ホームステイといったところか。
その部屋には、中学一年生の奥畑家の三男、生(しょう)君もいて、壁際の机に向かって何やら勉強していた。
長男と二男は、現在は県外の高校に通っているため、家を出ている。
机の正面に、大きく「集中」と書かれた紙が貼ってあったが、「こんにちは」と私が言うと、「こんにちは」と彼はちゃんと答えてくれた。
集中してるところ、ごめんよ。と思いながらも、私は、陽子さんが出してくれたお菓子と、充幸さんが入れてくれた珈琲をいただきながら、大いに話に花を咲かせたのであった。
数時間もたたない内に、すっかり辺りが暗くなってきた。冬の日暮れは早い。
「そろそろお風呂でもどうですか」
魅力的な提案に、私は間髪入れずに「入ります!」と答える。
浴室は、外に面した渡り廊下の先にあった。
冷たい風の抵抗を受けないよう、そそくさと通り抜け、脱衣所に飛び込んでドアを閉める。
入浴の時間もまるで、誰かの家のお風呂を借りるときと同じような感覚だ。
ただ他と違うのは、その浴槽が、「桶」だということ。
おひつを大きくしたような風呂桶は、弟の正宏さん作のものだそうだ。
薪で焚いているというお湯からは、もうもうと煙が立ち込めている。
私の中の風呂好きの血が、ふつふつと湧きたった。
つんと冷たい空気にばかり触れていたせいだろう、湯船のお湯がじんわりと身体に染みる。
背中に当たる桶の木肌がまろやかだ。
と、
「湯かげんいかがですかー!」
隣の壁から、ぶっきらぼうな生君の声が聞こえてきた。
きっと陽子さんから「湯加減聞いてきて」と頼まれたのだろう。
なんだかくすぐったい気持ちになりながら「ちょっと熱いくらいです、大丈夫」と答える。
「頑張ってるじゃん、中学生」
生君が立ち去る足音を確認して、私は小さく、ふふふと笑った。
夕食の時間は、宴会だった。
充幸さんが打ってくれた二八蕎麦を皮切りに、陽子さんお手製の料理が並ぶ。
蓮根の甘酢漬け、白菜と豆腐の塩汁鍋、牡蠣の八丁味噌煮、にいなご飯、タンドリーチキン。
どれもこれも、ひとひねり効いていてクセになる味のものばかりで、すごく美味しい。
夫婦お気に入りの地酒「YOEMON」を片手に夜通し語り合う中で、私は、彼らが「ばあちゃん」から教えられてきたことをとても大事にしていることに気がついた。
彼らの言う「ばあちゃん」とは、開拓時代から唯一この地に残って暮らしていた、向田マサヨさんのこと。
彼女の生き方は「タイマグラばあちゃん」という映画にもなっている。
その生き方とは、「自然と共に生きる」というもの。
コブシの木の花芽の様子を見て作凶占いをしたり、「あの鳥が鳴いたらこの作物の種をまくんだよ」と、教えられた通りにすると上手に芽が出たり……
それは、長い長い年月をかけて、昔の人々やばあちゃん自身が、実体験にもとづいて得てきた知恵だった。
ばあちゃんが教えてくれることはいつも、データや文字が言うことよりも優れていた。
ばあちゃんは山菜を採るとき、大きさが十分でないものは土に戻す。
「こうしておけば来年またいっぱい取れる」というのだ。
人はつい、十分に収穫していても「もっと、もっと」と欲が出てしまうものだが、実はそうやって小さな芽まで摘んでしまうと、翌年には、その植物は芽吹かなくなってしまう。
ばあちゃんはそのことを、身を持って知っていたのだ。
「山菜を、『美味しいよ』ってただ出すだけじゃなくて、そういうばあちゃんの生き方とかも、一緒に伝えられたらいいんじゃないかなぁ」
と、充幸さんは語る。
あんまり楽しい夜だったから、調子に乗って、少々呑み過ぎたかもしれない。
おかげで、夜明け前の4時に目が覚めて、震えながらトイレへ駆け込む羽目になったのだった。
岩手の秘境・タイマグラの桶職人を訪ねて[後編]に続く
ライター 坂口直
1985年、東京都生まれ。
大学卒業後、海外特許取得に係る手続きの代理業に5年間従事。
初めてアジア以外の海外を訪問した際、異文化の面白さを感じ、まだ見ぬ人や文化に出会いたいという思いが芽生えるようになる。
その思いを遂げるべく、2013年春よりフリーのライターとして活動開始。現在はWeb媒体を中心に活動を広げている。