星を見ること自体が好きだった廣瀬匠さん。
天文学者になるよりも、自分の気持ちを追求しようと決め、AstroArts(アストロアーツ)という会社に就職した。天文学に関する様々な商品や、出版物、ソフトウェアを開発、販売する会社だ。一般の人がもっと星を見るようになってもらいたいという気持ちで、ウェブサイトの編集やデザイン、星に関する文章を書く仕事に日夜取り組んでいた。忙しく充実した毎日だった。
冬のある日、深夜遅く帰路についたときのことだ。
空を見たら春の星座がもう昇っているのが見えるではないか。それを見て、ああ、もうこんな時間なのかとビックリした。時刻は、深夜3時だった。
「それは、短針が『3』を差す腕時計の文字盤よりはるかに強烈に時刻を感じさせる経験でした。それで、天体は時計としてもカレンダーとしても優秀だなあ」と身を持って感じ始めた。
同じ頃、会社の企画のために天文学の歴史を調べる機会があった。そのうち、面白い、という気持ちがふつふつと沸き上がってきた。
「昔の人がどうやって星を見たり、宇宙のことを考えていたのかを追求しよう。それを知ることで、現代の人と星とのつながりを考えるヒントになるのではないかと思いました」
改めて天文学の歴史をしっかり勉強してみよう。
そう決めた彼は、5年間勤めた会社を辞めた。
そうなのだ。昔の人にとって、星というのは現代よりもなじみ深いものだった。夜が今よりも暗かったというのもあるだろう。しかし、それよりも星の運行が日々の生活の中ではるかに重要な役割を果たしていたからだ。
時計もカレンダーもなかった大昔、人々は天体の運行をもとに暦を作ったが、暦を作るというのは、まさに大事業だった。世界各地の人々は月の満ち欠けをじっくりと観測し、星の運行を計測し、独自のカレンダーを作りあげていった。
ちなみに暦には、月の満ち欠けに基づく太陰暦と、太陽の運行周期に基づく太陽暦、そして両者を組み合わせた太陰太陽暦がある。私たちが今利用いるのは、太陽暦である。というのも、月の満ち欠けの周期は約29.5日なので、一年経つと約11日ずれてしまう。しかし、イスラム文化圏では今でも純粋な太陰暦である「ヒジュラ暦」が使われている。そのため、断食月として有名なラマダーンは、毎年少しずつ早まるのだ。
私は、そんな廣瀬さんの話にどんどん引き込まれ、すっかり「星座教室」の生徒になっていた。
「じゃあ、日本の暦はどうやって作られたんですか?」(私)
「もともと日本は、中国から輸入してきた暦を使っていたんです」(廣瀬さん)
一番長く使われたのが、平安時代に唐(中国)から輸入された「宣明暦」だ。それは、江戸時代に至るまで800年の長きにわたり使われ続けていた。
「ただ大きな問題があって、暦を輸入することは、自分たちではバージョンアップできないソフトを導入するようなものでした。補正ができていないので、長い間に暦がずれてくるんです。だから、江戸時代になる頃には、冬至も二日くらいずれていた」
輸入した当時は全く気にならないほどの小さなズレが、800年の間に蓄積され、江戸時代になると日食や月食などの予報も外れることが多くなっていた。
「へえ、でも二日くらいずれてもいいんじゃないですか?」(私)
「時の権力者から見ると、許し難いことなんですよ。どの文明でも自分の権威付けのために暦を利用していたんです(中国では暦は「国家の大典」と位置づけられていたほど)。時間は、一般庶民には極めて測り難い。だから、時間や暦を知っている人々に対して、『ははー』となる。たった二日間でもずれていることが知れ渡ってしまうと、権威がゆらぐんです」
そこで行われたのが、江戸幕府の一代プロジェクト、改暦の儀である。その経緯は、ベストセラー小説の『天地明察』(沖方丁著、角川文庫)や『天文方と陰陽師』(林淳著、山川出版社)に詳しい。改暦の大プロジェクトを任された渋川春海は、天文観測と緻密な計算を行い、人生の情熱と知力の全てをかけ、日本独自の「大和歴」を作りあげていく。 『天地明察』には、暦の重要性がこう書かれている。
今日が何月何日であるか。その決定権を持つとは、こういうことだ。
宗教、政治、文化、経済 ——全てにおいて君臨するということなのである。
へええ!
それからしばらく私たちは、世界の暦づくりについて色々と話をしたのだが、とりあえずは廣瀬さんの人生の先を急ぎたい。
会社を退職した廣瀬さんは、京都産業大学の修士課程に進学した。学ぶのはイスラム文化圏(アラビアやペルシャなど)とインドの天文学史である。
ん? どうして、よりにもよってインドやアラビア!?
「いわゆる西洋世界、古代ギリシャとか、コペルニクスやガリレオなんかに代表される『西洋天文学』をやっている人はいっぱいいるんです。でも、イスラム文化圏などでも天文学が発展して、重要な役割を果たしたことを初めて知って、やりたいなと思うようになりました」
「だから、会社を辞めてまずやったのは、アラビア語とサンスクリット語の勉強だった」とあっさりと言うので、またもやビックリした。
日本にサンスクリット語の先生はいるんですか?
「大学で先生とマンツーマンで習いました。インドは仏教の原点ですから、昔から日本ではサンスクリット語研究の長い伝統があるんですよ」
もう、未知すぎる世界に、へええ、と答えるしかない。
京都の大学での修士課程に通いながら、星のソムリエとしても活躍。その後京都大学の博士過程に進んだ後、今度はパリ第七大学の博士課程で研究をするためにフランス語もできない中、思い切ってフランスに移り住んだ。パリ第七大学には、彼が求めている研究の世界が広がっていた。これは、本物の情熱以外の何者でもない。
今、廣瀬さんはまるでインディ・ジョーンズさながらのフィールドワークをインドで行っている。それは、まだ誰も研究していない古文書を解読することだ。
「こういう文献を読むんですけど」
そう言って見せてくれた写真には、板きれのような物体にサンスクリット後の文字が書かれていた。
サンスクリット語で書かれた未研究の写本。
「当時の天文学の本に関する注釈が書かれているんです」
とても簡潔に言うなら、まず大昔の学者によって作られた難しい天文学のテキストがある。テキストと言っても、インドの場合は記憶して諳んじることを前提としているので、コンパクトな韻文の形体をとっている。そこで、それを理解しようと、別の人が注釈書を書く。それが、この板きれの正体である。
「インドには、何万もこういう写本があって、誰も読んだことがないものが大量にあるんです。個人の家や図書館にあるけど、まだ研究されていないものも多いんですよ」
じゃあ、インドまでわざわざ見に行くんですか?
「はい、行きます! 現地に行かないと触れることができないし、やっぱり直接見たい! 9月にまたインドに行くんですが、今回見ようとしているのは個人の家に眠っていたものです。何か新しい発見があるかもしれません!」
昔の人たちが宇宙についた書いた文書の解読……! そんなものが民家に眠っているインドの深さと宇宙の広さが相まって、少しだけ気が遠くなった。
今でも廣瀬さんは、京都に戻れば星空案内人としてワークショップや講座を楽しく行っている。それは、難しいものではなく、誰にでもわかる星の話だ。彼の情熱は、今でも「もっと星空が見たい」、そして「星を見るのって楽しい、だから他の人にもこの楽しさを広めたい!」という原点からぶれていない。
鴨川沿いも、夜が更けると意外に暗い。
というわけで、再び鴨川三角州である。
「望遠鏡がなくても、双眼鏡さえあれば色んな星が見えますよ」
そんな彼の言葉に促されて、私は双眼鏡でぼやっと月や夜空を眺めていた。
星って、本当は色々な色をしているんだなあ。そんなことを考えていると、急に光がさっと視界を横切り、一瞬で消え去った。
「あ、あ、いま見えた! 流れ星、見えました!」
私は興奮気味に声をあげた。
「どんなスピードでした? 方向は?」と廣瀬さんがすぐに聞く。
私の答えを聞くと、「もしかしたら、それは人工衛星かもしれないですねえ」
人工衛星は、よく流星と間違われるそうだ。
なんだあ、紛らわしい。ガッカリである。しかし、考えてみれば、もう確かめる術はないのだ。だから私は、流れ星が見えたと思いこむことにした。わざわざ京都までやってきて、夜空を眺めた今夜の記念に。
考えてみると、彗星とか流星とは何なのだろう。流星の降る日に生まれたわりに、今まで、考えてみたこともなかった。
確か彗星は、太陽の周りをグルグル回っているはずだ。だから、たまに地球の近くにやってくるのだ。じゃあ、流星は? 一年に一度見られるということは、流星も回ってる?
そう聞くと、廣瀬さんはわかりやすく解説してくれた。一言でいうなら、彗星と流星は親子関係にあるのだ。
「流星群は、彗星が軌道上に残した塵に、地球がぶつかる時に見える物なんです」
彗星はよく「汚れた雪だるま」とも言われる代物で(面白い表現!)、塵を大量に含んだ氷の固まり。雪だるまが太陽に近づくと、その氷が溶け、通った後には大量の塵が残される。そういう塵の塊が漂っている辺りに地球が近づくと、その塊が一気にわっと見えてくる。それが、流星群の正体である。
なるほど~!
ちなみに、ペルセウス座流星群は、133年の周期で太陽の周りをまわるスイフト・タットル彗星が母天体だ。毎年8月の半ば、地球はスイフト・タットル彗星が残した塵の辺りを通過するというわけだ。
「中には2000年以上の周期を持つ彗星もあるんですよ。ヘール・ボップ彗星って覚えていないですか」
残念ながら私の記憶にはなかったが、ヘール・ボップ彗星は、1997年に地球に接近した彗星である。肉眼でもはっきりと見える長い尾をたなびかせ、世界中の人々をびっくり仰天させた。この彗星は、前代未聞に巨大で、なんと18ヶ月もハッキリと現れ続けた。たぶん、昔の人々ならば不吉なできごとの兆候と捉えただろう。
ちなみに、次にこの彗星が現れるのは、西暦4530年頃である。
夜11時くらいになると、流星群観察会には、20人くらいの仲間が集まってきた。多くがラガードの研究所の常連さんだ。やがて、ラガード研究所のもう一人の星の先生、河村聡人さんもやってきて、ブルーシートは賑やかになった。
誰かが、ふと「宇宙人っているんでしょうか?」と呟くと、「きっといると思いますよ。地球に来ているかは分からないけど」と河村さんが答えた。へえ、と思う間もなく今度は誰かが「ブラックホールはどれくらいの大きさなんですか?」と聞く。
星の先生たちは、素人達の思いつき同然の質問にも、マジメに優しく答えてくれる。頭上では、夏の大三角形のベガが曇り空の中で鈍く光っていた。
そんな仲間が集まる賑やかな時間の中で、廣瀬さんは自身の体験をこう振り返る。
「より星空に詳しくなって宇宙の実像も把握できるようになると、一人で満天の星空を見るのが怖くなった時期があるんです。それは、とてつもなく広い虚空の中に自分がぽつんと浮かんでいる感覚で、すごい孤独感とそれに伴う恐怖を感じたんです。星を見る喜びと、夜空を見上げる恐怖。そんな矛盾した感情が同居している。だからこそ、星を見る仲間を増やす活動に積極的なのかもなあ…」
やがて、ベガすらも分厚い雲に隠れてしまった。しかし、気づけばもう流星が見えなくてもいいやと思う自分がいた。 こんな風に宇宙の話をしながら寝っころがるなんて、生まれて初めてだ。気分は最高だった。
天文学。それは、「天からの文」、つまりはメッセージを受け取ること。
空は、私たちに何かを伝えようとしている。だから、流星群観察会は、きっと別に星だけを見ているのではない。
無数の先人たちが見上げてきた夜空。法則性の秘密を解き明かそうとしてきた偉大な人々。そして、今も私たちの一日、一月、一年を司る大いなる宇宙。途方もなく広い漆黒の中で、地球という惑星に生まれた自分という唯一の存在。
ずっと、ずっと、忘れてた。空は、いつでもそこにあったんだ。
それが思い出せただけで、来てよかったと思えた。
川内 有緒 ノンフィクション作家
日本大学芸術学部卒、ジョージタウン大学にて修士号を取得。
コンサルティング会社やシンクタンクに勤務し、中南米社会の研究にいそしむ。
その合間に南米やアジアの少数民族や辺境の地への旅の記録を、雑誌や機内誌に発表。
2004年からフランス・パリの国際機関に5年半勤務したあと、フリーランスに。現在は東京を拠点に、おもしろいモノや人を探して旅を続ける。
書籍、コラムやルポを書くかたわら、イベントの企画やアートスペース「山小屋」も運営。
著書に、『パリでメシを食う。』(幻冬舎)、『パリの国連で夢を食う。』(イースト・プレス)、そして第33回新田次郎文学賞を受賞した『バウルを探して~地球の片隅に伝わる秘密の歌~』(幻冬舎)がある。