初めて触れる“じいじ”の背中は、ほんのり温かかった。間もなく36歳の元青年(筆者)が思わず“じいじ~!”と思いっきり抱きつきたくなるぐらいでっかい背中だった。
“じいじ”の名はコトブキライアン。日本で唯一北海道の帯広で開催されているばんえい競馬で現役最年長の競走馬だ。間もなく15歳(2000年4月13日生まれ)、人間に換算すると60歳の還暦ながら、今年2月には史上最高齢勝利記録を更新した。厩舎の皆さんから愛を込めて“じいじ”と呼ばれるコトブキライアンは、目下、最多出走記録も毎週のように更新している。
たいていの馬は2週間に1回のペースで出走し、10歳前後で引退するというのに、“じいじ”はいまだに毎週出走しているというから、まさに規格外のタフガイ。そんなスーパーおじいちゃんの背に、僕はまたがっていた。いかにも重量級の僕の体重をものともせず、体重1トンを超える巨躯の“じいじ”が悠然と歩き始めると、学生時代にタイで象に乗った時のことを思い出した。
ばんえい競馬でも屈指の人気を誇るコトブキライアンの背中に乗せてもらえるとは思ってもみなかったのでついついはしゃいでしまったが、ふと我に返って恥ずかしくなり、少しでもまともな感想を言おうと思って勢いで「馬って、すっごく温かいんですね!」とたいしたことのないコメントをすると、傍らで僕と“じいじ”を見守っていた寡黙な雰囲気の男性が、ニヤリと微笑んで口ずさんだ。
「あったかいんだから~♪」
ええっ!
コトブキライアンと同じような穏やかな目をしながらも、どことなく勝負師の面影を残す男性の意外なノリにドキリとした。
この男性、金山明彦さんはコトブキライアンの調教師だ。でもそれだけじゃない。金山さんはかつて「ミスターばんえい」と呼ばれた稀代のジョッキーで、通算成績1万9712戦3299勝という驚異の記録を持つ、ばんえい競馬の生きたレジェンドなのである。
コトブキライアンと金山さん。
これは一頭と一人、ともに北の大地で伝説を築いた男たちの物語。
コトブキライアンに話しかけながら優しく撫でる金山調教師
ところで、ばんえい競馬って何? という読者もいるだろう。素人の僕が下手な説明をするよりも、ばんえい十勝のホームページにある解説がわかりやすい。引用しよう。
【「ばんえい競馬」は鉄ソリを馬に曳かせ、全長200m、途中に2か所、障害(坂)のある直線コースで競うレースです。
よく知られている平地競馬とは違い、スピードだけではなく、馬の重いものを引っぱる力と持久力そして騎手のテクニックの勝負です。
このレースは北海道開拓に活躍した農耕馬で農民たちがお祭り競馬として楽しんでいたものがシステム化され現在の形に発展したもので(中略)、北海道が育てた世界でたったひとつの「ひき馬」競馬として内外の注目を集めています】
帯広競馬場外にある競馬神社。おみくじを引いたら中吉で「蹴る馬も乗り手次第」と書かれていた
ばんえい競馬の競走馬にはスピードよりもパワーが求められるから、一般的な競馬に使われるサラブレッドとは馬の種類も違う。もともと農耕馬だから身体が大きく丈夫で、体重はサラブレッドの倍の約1トン。ばんえい競馬の馬を間近で見ると、それまでの「馬」という既成概念を壊されるど迫力だ。
ばんえい競馬が公営になったのは、戦後間もない1946年11月。かつては旭川、帯広、北見、岩見沢の4市で運営されていたが、経営不振などもあって2007年から帯広市で単独開催されている。
地方競馬と言えばあまり元気がないところが多く、ばんえい競馬も苦戦続きだったけど、2013年度は人気漫画『銀の匙さじ』でばんえい競馬が取り上げられた影響もあって黒字化。2014年度は、馬券販売額が帯広市で単独開催するようになってから過去最高額を記録して、にわかに元気を取り戻している。
最近の大きな変化は、ファン層の変化だ。
「この頃、ファン層が若くなって、家族連れが多くなってきた。帯広市としても、お客さんが来やすいように、家族連れでも遊べるようなイベントの場所というか、そういう風に持っていこうとしているし、お客さんも家族連れで遊びに来る感覚になってるよね」
ジョッキー、調教師としてばんえい競馬の興隆期から全盛期、そして苦境に陥った時期まで肌身で感じてきた金山さんは、嬉しそうに目を細めた。
帯広競馬場内に展示されている実物大のソリと馬の写真
「子どもの頃から馬が好きだった」という金山さんがジョッキーを目指して厩務員になったのは中学卒業後の15歳のとき。それから3年後の1969年6月14日、ジョッキーとしてデビューし、初めてのレースで初優勝という華々しいスタートを切った。
それから30年後の1999年12月、48歳で引退するまでに1万9712戦3299勝という記録を残すわけだけど、僕はまず勝利数よりも騎乗数に目を奪われた。単純計算で年間657回の騎乗を30年間続けたことになる。失礼な質問かもしれませんが、と前置きして率直に尋ねてみた。
「30年間、これだけの数を騎乗して、飽きませんでしたか?」
金山さんは「飽きるなんていう気持ちは一つもなかった」と首を横に振った。
「騎手になって3年目、4年目ぐらい、その時に騎乗回数も少なくて、勝ち鞍もなくて、ばんえいの騎手だと認められていなかったら飽きたこともあったかもしれない。でも順調に成績が上がっていったんでね。やっぱり小さい時から馬が好きでこの世界に入って、騎手になるのが夢だったし、自分で選んだ道で馬に接していることが一番楽しいなという気持ちでやっていましたね」
金山さんが30年間、第一線で活躍できたのは、勝負への強いこだわりもあった。競馬の世界では馬主からの依頼で騎手が決まるから、強い騎手だけ仕事が増えてゆく。完全なる実力社会のなかで、金山さんは18歳の頃からどうやったら勝てるのか、を追求し続けた。ソリの上でダイナミックに身体を動かす騎乗方法も、その過程で編み出した。
「デビューした頃は40歳を過ぎた自分の親ぐらいの人たちが現役のバリバリで、この人たちと同じことをしていたって絶対に自分は上に上がれないなと思って、乗り方も勉強したんだ。あの人たちを超えるには、自分なりの騎乗法を探さなきゃいけない、そこが一番だった。若いうちにいろんなことをやってみようと思って、身体を動かしたり、いろんなことをやってみたらそれが結果的に良い方に行ったんだよね。ソリの上でそんなに動いたら馬に負担がかかるとか言われたけど、それで勝ちだすと、認めてもらえるわけでしょ。何年かするといろんな馬の騎乗依頼が来るようになって、やっぱりこの道しかない、と」
ばんえい競馬の風雲児として金山さんが勝利を積み重ねている頃、ばんえい競馬も最盛期を迎えた。年に1度のばんえい競馬最大のレース「ばんえい記念」の時には、収容人数1万4000人の帯広競馬場が満員になった。
「スタンドいっぱいに人がいて、そこに入れない人がコースの前にもバーッといて、ものすごい雰囲気だった。その頃、場内も禁煙じゃなかったから、お客さんの煙草の煙でスタンドが真っ白に見えるぐらい。しかも、昔は馬場も今より重かったので、5分、6分のレースになるから、(障害を越える時)お客さんのよいしょーっ! よいしょーっ! という掛け声もすごかった」
帯広競馬場の夕暮れ。3月22日に開催されたばんえい競馬最大のレース「ばんえい記念」では約4200人のファンが詰めかけた
騎手にとっても馬にとっても最大の栄誉である「ばんえい記念」で、金山さんは6度の勝利を飾った。この記録はいまだに破られていない。
1000勝、2000勝と勝利を重ね、いつしか「ミスターばんえい」と呼ばれるようになっていた金山さんが引退を決意したのは、「勝負師の美学」みたいなものだった。
「体力的には弱ったとかそういうこともなかったんだけど、まだもったいない、もう少し頑張れよ、と言われるぐらいの時に辞めた方が、『あんな年いって、いつまでも乗ってるなよ』と言われるよりいいかなという気持ちもあってね。ばんえい記念もたくさん勝たせてもらったし、重賞もたくさん獲らせてもらったし、あとは自分が調教師になって、今まで自分が乗ってきたような強い馬を自分で作ってみたいなと思ったんだ。よぼよぼになってからはできないことだし、早めにそういう馬を作りたいなという気持ちだった」
1999年12月、金山明彦、惜しまれつつ引退。
そして2000年から始まった調教師生活。間もなく、最終的に重賞で13勝した牝馬・サダエリコという名馬の調教を手掛けるなど、調教師としても実績を積み重ねるなかで、思いもかけず面倒を見ることになったのが、コトブキライアンだった。もともとコトブキライアンが所属していた厩舎が廃業することになり、金山さんのもとに引き取られてきたのである。コトブキライアンが9歳の時だった。
その当時、ばんえい競馬では競走馬の「10歳定年制」があり、翌年には引退というタイミングだったが、ちょうどその年に定年制が撤廃され、コトブキライアンの現役続行が決まった。
「本当に健康な馬で、若々しいから、使えるまで使おうかという話になったんだ」
ばんえい競馬はオープンクラスからA1、A2……C2クラスまで9段階に競走馬のクラスが分かれており、成績で上下動する。コトブキライアンはデビュー時からB2からB4を主戦場としており、決して目立つ存在ではなかった。金山さんの印象も「常に真面目なレースをしている馬だな」という程度だった。
しかし、調教を担当するようになって、コトブキライアンへの見方が変わったという。
「ばんえいのレースは障害が2つあって、最初の障害はある程度のスピードでどの馬も越えてくるんですよ。勝負のポイントは2つめの障害で、あそこにくるとソリが重たいっていうのは馬もわかりますから、年を取るとだんだん悪いことを憶えて、あそこにいったら休めるなという馬の気持ちがあって、膠着して上がらなくなる馬が多いんです。でも、ライアンは膠着したり、転倒したことは1度もない。1着を取れないにしても、2着、3着と常に上位に顔を出す。レースをする度に本当にえらいなって頭が下がるぐらい」
朝靄立ち込める早朝から始まる馬の調教風景(提供:ばんえい十勝)
決して才能に恵まれた馬ではない。でも、素直でまじめで、レースでは決して手を抜かない。2002年6月1日にデビューしてから13年間、459戦(2015年3月30日現在)、コトブキライアンはひたすらゴールを目指して走ってきた。そのうち、1着になったのは37回だけど、3着までに入った数は146回。だいたい3回に1回は3位までに入っていることになる。
間もなく15歳になるいまでも、1週間に1回のペースで出走し、なおかつ4歳、5歳の馬と一緒に走っても上位に食い込む“じいじ”を支えるのは、生来の頑強な身体だ。数多くの馬に騎乗し、調教してきた金山さんは、「『無事これ名馬』という言葉は、ライアンのためにあるような言葉だ」と手放して褒め称える。
「15歳まで大病もしないであれだけの馬体を維持できるのは、本当に珍しい。ライアンは若い時に馬体重が1020~1030キロだったんですよ。だけど15歳になって、特別な管理をしているわけでもないのに、1040キロぐらいになっている。人間もそうだけど、普通は年とともに筋肉が落ちてきて体重が減るでしょう。でもライアンは筋肉が落ちていることもないし、自分で体調維持をしているのかなと思うこともありますよ。だいたい10歳前後で馬体も力も落ちてくるのに、それがこの馬には一切ないのがすごいこと」
金山さんによると、普段のコトブキライアンは「馬房でもいるかいないかわからないぐらいおとなしい」し、「女の人でも子どもでも馬房の出し入れができる」というぐらいおっとりした性格だという。
もし10歳前後で引退していたら、誰からも注目されないまま競走馬としてのキャリアを終えていただろう。幸運にも引退間際のタイミングで定年制が廃止され、ライアンの丈夫な身体と穏やかながらもひたむきな性格に気付いた金山さんとの出会ったことで、最多出走記録と最年長優勝記録につながったのだ。
若い時は無名の存在だったコトブキライアンだが、今ではファンの心もガッチリつかんでいる。 勝っても負けてもレースの時にはライアン! ライアン! と声援が飛び、金山さんが「このメンバーじゃちょっと勝てないんじゃないかな」と思うようなレースでも馬券が売れるそうだ。
帯広競馬場のすぐ裏手に厩舎と関係者の住居が立ち並ぶ
馬たちが食べる人参は市場には出ないもので、大きなカーゴいっぱいに入って5000円ほど
このインタビューの前日、僕は帯広競馬場で初めてばんえい競馬を体験した。
競馬場はレトロな雰囲気で、どこか牧歌的な香りがした。ばんえい競馬の醍醐味は、スタンドからだけでなく、コースのすぐ横で観戦できることだろう。僕も、勘に頼って2000円分の馬券を買い、コースまで数メートルというかぶりつきの位置に陣取った。
僕が滑り込んだのが17時40分に出走する平日の最終レースだったせいか、観客はまばらだったけど、若い女性だけのグループや家族連れもちらほら目に入る。「地方競馬」という言葉から連想しがちな暗さはなかった。
出走の時間になり、9頭の馬がゲートに並ぶ。
出走直前のゲート。緊張感あふれる瞬間
間もなく「ガチャンッ」という音とともにゲートが開いて、一斉に馬が走り出した。重いソリを引いているから、思ったほどスピード感はない。でも、距離が近いから馬の巨体と筋肉の動きがダイレクトに伝わってきて、観ている僕も思わず力が入る。
ハイライトはやはり、高さが約1.6メートルある第2障害。第1障害を越えた後、息を整えた馬が全速力で坂越えにアタックする。グゥーッと踏ん張る馬の息遣い、いけー! というジョッキーの掛け声が聞こえてきそうなほど手に汗握るシーンだ。先頭の馬が第2障害を越えてきた時の躍動感に、思わず「オォー!」と歓声を上げてしまった。
高さが約1.6メートルある第2障害をいかに乗り越えるかが最大の勝負所
馬券は見事に外れたけど、ばんえい競馬には、サラブレッドが軽快に走る姿を眺めるのとはまるで違う一体感があった。
僕が感じたこの気持ちを、金山さんがビシッと表現してくれた。
「サラブレットの競走ってスタンドに座って2000メートル、3000メートル、ただ見ているだけでしょ。ばんえいは、200メートルの距離を馬と一緒になってスタートからゴールまで追えるんだよ。馬券を買った馬と並走して、よいしょー、がんばれーって応援できる。自分が騎手になったような気持ちになれる。それがばんえいの魅力だと思う」
今回、どうしてもタイミングが合わず、コトブキライアンのレースを見ることはできなかったけど、ばんえい競馬を体験して、コトブキライアンが勝てそうにないレースでも馬券を買うファンの気持ちがわかった気がした。
普段はどの馬よりも気の優しい好々爺でありながら、レースになればどんな強敵にも果敢に挑んできたコトブキライアンは、ファンにとって声援を送りたくなる馬なのだ。誰よりも近くで“じいじ”を見守る金山さんも、その静かなる闘志に心を奪われたのだろう。
いまやミスターばんえいが「100頭に1頭、1000頭に1頭の立派な馬」と認めるコトブキライアンは、2015年のシーズンも200メートルのコースを駆け抜ける。
既に出走数では、一般的なサラブレッドの競馬も含めて歴代トップ。最高齢勝利はオースミレパードが高知競馬で記録した16歳5ヵ月だけど、今の調子なら前人未到の出走数と最高齢勝利の2冠も夢ではない。
コトブキライアンと金山さん。
一頭と一人、ともに北の大地で伝説を築いた男たちの物語は、まだまだ続く。
ライター 川内イオ
1979年生まれ、千葉県出身。広告代理店勤務を経て2003年よりフリーライターに。
スポーツノンフィクション誌の企画で2006年1月より5ヵ月間、豪州、中南米、欧州の9カ国を周り、世界のサッカーシーンをレポート。
ドイツW杯取材を経て、2006年9月にバルセロナに移住した。移住後はスペインサッカーを中心に取材し各種媒体に寄稿。
2010年夏に完全帰国し、デジタルサッカー誌編集部、ビジネス誌編集部を経て、現在フリーランスのエディター&ライターとして、スポーツ、旅、ビジネスの分野で幅広く活動中。
著書に『サッカー馬鹿、海を渡る~リーガエスパニョーラで働く日本人』(水曜社)。