「我が輩は海鵜(ウミウ)である。名前はまだない。どこで生まれたかと言えば、京都の宇治川の近くである。固い殻を破って外にはい出すと、ビデオカメラが我が輩を見つめていたことだけは記憶している。我が輩は、ここで始めて人間というものを見た……。」
….と、パロディ小説はこのへんにしておいて。
とにかく今年の夏、「事実は小説より奇なり」というできごとが京都にて起こっている。それは、鵜飼用に飼育されていた鵜のカップルが卵を産み、ベイビーが誕生したことだ。
ん、それがどうした? ニワトリなんか毎日世界中でヒナが生まれてるでしょ、と思った方は、ちょっとお待ちを。
「鵜はデリケートな鳥で、人間の飼育する環境では、絶対に卵を産まないと言われていたんですよ」(鵜匠・澤木万理子さん談)。
鵜飼で活躍するのはすべて野生の海鵜。人工繁殖は不可能、というのが常識だった。しかし今回、1300年の通説をひっくり返すかのように、鵜小屋の隅でひっそりと卵が産み落とされ、関係者はびっくり仰天。そして、人工孵化により無事にヒナが生まれたのだ。
日本で初めて、いや、もしかしたら世界初かもしれないこの快挙。京都生まれ、京都育ちの由緒正しき鵜のベイビーは、今後「伝説」として語り継がれることになりそうだ。
というわけで私は、伝説の赤ちゃん鵜、そして、ある女性の鵜匠さんに会いに、京都の宇治に向かっているのだった。
京都駅から奈良線に乗り宇治駅で下車し、午後の日差しの中でのんびりと歩き始めた。すぐに、お茶のなんともいい香りが漂ってくる。立ち並ぶ老舗のお茶屋さんの軒先で、たくさんの人が抹茶ソフトクリームを頬張っている。ここは、言わずとしれた日本有数のお茶の銘産地だ。
川沿いにのびる緑の遊歩道を進んだ。もみじの葉の間からこぼれる繊細な光に、思わず、ああ、ここは京都だなあと思う。
川に停泊している朱色の船を見て、「あれが鵜舟だな」とすぐに分かった。目指す場所は、もう近いようだ。実はその日、大型台風の影響で、予定されていた鵜飼は中止になっていた。それでも、鵜飼を運営する宇治市観光協会には、100人以上の観光客がつめかけていた。誰もが、例の鵜の赤ちゃんをひと目見ようとしているのだ。
お客さんがひけた頃、鵜匠の澤木万理子さんが現れた。
「お待たせしてすみません。今日はお客さんが本当に多くて!」
黒い髪をキリリと一つに結び、黒いTシャツに黒いショートパンツといういでだち。むだな贅肉も飾り気もない美しい姿は、鵜飼というよりアスリートのようだった。
彼女は、日本で三人目となる女性の鵜匠である。
「もともと、鳥とか動物が大好きでした」
澤木さんは、京都風の優しいイントネーションで話し始めた。彼女は、珍しい女性の鵜匠として、ずっと注目を浴びてきた。それは、そうだろう。若い女性がどうして鵜飼の世界に飛びこんだのか、やっぱり知りたくなってしまう。
社会に出てからは会社員として働き、27歳で結婚した後に退職。その後は、派遣社員として事務職をしていた。しかし、幸せな生活の中でどこか物足りなさを感じていた。
「いつしか大好きな鳥と関わる仕事ができたらなあ、という気持ちが大きくなりました」
その時に頭をよぎったのは、学生時代に見た鵜飼の姿だった。
「20歳くらいの時、嵐山の鵜飼を見に行ったんです。鵜匠さんが鵜を自在に操っているのを見て、かっこええなあ!と思いました」
よし、鵜匠になろう。
心は決まり、家族も「やりたいんだったら、挑戦してみたら」と応援してくれた。
それにしても、鳥と関わるだけだったら他の職業もあるだろう。
「そうなのですが、私は鳥とパートナーになって、“一緒に”仕事がしたかったんです。そういう仕事は、鷹匠と鵜飼とくらいしか思い浮かばなくて」
なるほど、確かにそれは他にはなさそうだと私は納得しながら答えた。
というわけで、派遣社員から鵜匠へ。いざ転身である。
ここで、「鵜飼」について、ちょっとだけ解説を。
鵜飼は、鵜が魚を飲み込んで喉にためこむ習性を利用した、ユニークな漁法である。
「宇治川の鵜飼の歴史は、平安時代まで遡るんです。最初に文献に登場したのは、藤原道綱の母が書いた『蜻蛉日記』だそうです」
そう聞いて、大昔の古典の授業を思い出そうとするが、『蜻蛉日記』のことはほとんど記憶になかった。
後に調べてみると、それはちょっと意外なストーリーだった。作者である道綱の母が、旦那さんの藤原兼家に対して募らせる恋心、そして恨み辛みを赤裸裸に綴っているのだ。現代風に表現すると、「彼はぜんぜん会いにきてくれない。ヒドい人!もう知らない!でもやっぱり会いたい」という内容だ。
それはさておき、その一節に鵜飼が登場する。作者は、お寺に参拝する道中、宇治川に浮かぶ無数の鵜舟を見る。かがり火を焚きながら鮎を捕る幻想的な光景に、たいそう感心したとある。
このように平安貴族たちは、暗い夜の川で繰り広げられる独特の情景を大いに愛でていた。しかしながら、平安貴族の没落とともに、京都の鵜飼は徐々に衰退してしまう。岐阜県の長良川では徳川幕府の庇護により江戸時代まで続くが、それも明治維新でやはり衰退をたどった。そして宇治川では、時を超えて大正時代に観光用の芸能として復活した。
いくつもの時代は経たものの、今でもやっていること自体は1300年前とそう変わらない。
まずは、外洋に面した岸壁に生息する野生の海鵜を捕獲する。通常、鵜はそこに巣を作り、潜水して魚を捕って暮しているのだ。
鵜匠たちは、そんなワイルドな鵜たちに、追い綱をつけて魚を捕る訓練を施す。本番の舟に乗る前に鵜匠は、鵜の首を軽く紐でくくり、魚を飲み込めないようにしておく(お気の毒に!)。鵜はペリカンと同じように、一度に数匹の魚を喉にためておけるので問題ない。
鵜匠は、船頭たちと共に舟に乗り、火や音で魚をビックリさせる。そして追い綱をつけた数匹の鵜に魚を追わせ、魚を喉に溜めさせる。そして鵜の首元のふくらみ具合を見ながら舟に引き上げ、魚を籠に吐かると、「一丁あがり!」というわけである。
さて、決心したはいいが、いったいどうしたら鵜匠になれるのだろう。若き澤木さんは考え始めた。鵜飼で有名なのは、岐阜県の長良川だ。しかし、そこは世襲制を取っており、弟子入りはできない。諦めずに調べてみると、宇治川では世襲制ではなかった。
「京都ならば滋賀県の自宅からでも通えるし、『ここだ!』と思いました」
しかし、ハタと悩む。鵜飼は長い歴史を誇る伝統の世界。しかも、女性の鵜飼というのはほとんど存在せず、けっこうな男性社会である。一方の澤木さんは、なんの知識も経験もないOLだ。
本当に受け入れてもらえるだろうか?
何日も迷ったあげく、勇気を出して電話をかけた。
「鵜匠に興味があって、一度お話を伺いたいです」
すると、案ずるより生むがやすし。電話に出た相手は、「ええよ。でも、今は鵜飼のシーズンじゃないから、ほな、来年の夏にまたおいで」と答えた。
おお!
「そう、実はわりとあっさり受け入れてもらったんです」と振り返る。「後継者不足というのもあったとは思うのですが、たぶん......『どうせ、すぐ辞めるかもしれんな、とりあえず来てみれば』という軽い気持ちで受け入れたんでしょうね」と苦笑した。
翌年の初夏、ついに鵜匠見習いの日々が始まった。初めて間近で見た鵜飼は、とても綺麗な姿をしていたが、クチバシが鋭く、気を付けないといけないなと感じた。
「どんな訓練があったんですか?」
「それが、事前のトレーニング、というのは特になかったんです」
ええ!?
「いきなり本番になって、『じゃあ、舟に乗れ!』『えー!』という展開でした。だから、ベテランの鵜匠さんの横で、二、三羽の鵜を持って見よう見までやってみました」
かがり火がたかれ、魚たちが水面を泳ぎ回る。すると、体長1m近い大きな海鵜が、素早く魚を追って潜り始める。手に持った追い綱がぐいぐいと引っ張られた。
「もうパニックの手前です!魚を捕るなんてとんでもなくて、とにかく鵜を逃がさないようにするのが精一杯!」
鵜匠の技は、舟の上で追い綱をさばくことにある。何しろ相手は生き物。うまく誘導しなければ、鵜たちも「あっち行きたいな」「レッツゴー!」と勝手気ままな方向に進んでしまう。
「そうすると綱がからんで大変なことになるし、鵜も動けなくなってしまいます。だから、追い綱をほどきながら、動きやすいようにさばくんですけど、最初は本当に難しかったですね」
必死になっているうちに、鵜匠見習いとしての最初の夏が終わった。
そこで、はたと気づく。秋からどうしよう?
「鵜飼のシーズンは夏の間だけ。だから、また派遣会社に登録しました」
そして夏は鵜飼をし、秋~春は派遣社員に戻るという一風変わった二重生活が始まった。ようやく「そろそろ一人で舟に乗っていいよ」と師匠に言われ、喜んだのは三年目だったという。
そのデビューの日、不思議と心細さはなかった。
「たぶん(師匠の)松阪(善勝)さんが船頭として同乗してくれていたから、安心していたんでしょうね」
日本で三人目の女性の鵜飼の誕生である。
その後、澤木さんは鵜飼を運営する宇治市観光協会の事務職に採用され、生活のリズムはずいぶん落ち着いた。
それでも、彼女の一日はとても長い。朝9時~5時までは観光協会の業務。夕方から鵜小屋に出向いて、餌をやり、小屋の掃除をする。そして夜7時からは鵜飼の本番。舟の上で追い綱を操り、鵜を引き上げ、大勢のお客さんを喜ばせる。鵜飼の事務所を出るのは9時くらいで、もうクタクタだ。だから、「鵜匠という仕事が女性にとって厳しい部分は、なんといっても体力ですねえ」という言葉には納得できた。
現在、宇治川には三人の鵜匠がいる。師匠の松坂善勝さん、澤木さん、そして数年前に入ってきた同じく女性の鵜匠、江崎洋子さんだ。
澤木さんは今年、13年目を迎えた。すっかりベテランの域である。
そんな話をしている間にも私は、澤木さんの後方が気になってしょうがなかった。大きなケージの中から、一匹の黒い鳥がじっとこちらを見つめていたからだ。この子が、例の人工孵化で生まれた赤ちゃん鵜だろう。体長50センチほどで、想像していたよりも、かなり大きい。
ある瞬間、鵜は「ピョロピョロー!!」という甲高い鳴き声をあげた。それは、リコーダーを思いっきり吹いたような元気な声である。
一回鳴き始めると、「ピョロピョロー!ピョロピョロー!」という声はもう止まらなかった。まるで、「お母さん、お母さん、 オハナシばっかりしてないで、ボクとも遊んで!」と甘えるように。
澤木さんは「じゃあ、おいで」と、鵜をケージから出して膝に乗せた。その時の鵜の嬉しそうな仕草といったら!澤木さんが優しく背中をなでると、それは嬉しそうに澤木さんの顔を見上げる。
ひゃあ、愛らしい!
「他の人にもこんなになついているんですか?」
「残念ながら、私たち鵜匠にだけです。本当はお客さんにも触ってもらいたいけど、やっぱり危ないので」
鵜は、本来は警戒心が強く、人になつかない鳥なのだそうだ。
へえ、生まれが違うと、やっぱりなにもかも違うのだ。
さて、今日の物語のもう一人の主人公であるこの甘えん坊は、どんな風に誕生したのだろうか。
今年の5月、鵜小屋に入った澤木さんたちは、見慣れないものを見つけた。
「あれ、卵じゃない!?」
前代未聞のできことに、不思議さと興奮を覚えた。どうやら、8年前から飼育されていたペアが、急に子づくりを始めらしい。しかし、卵は地面に落ちた衝撃ですでにヒビが入っていた。
「また卵を産むかもしれないね」と盛り上がっていると、数日後、本当にまた卵が産まれていた。しかし、その卵もやはり床に落ちて割れていた。ガッカリである。
「でも、また産むかも」と、ドキドキしながら鵜小屋を覗く日が続く。すると、再び3個の卵が見つかった。しかも今度は割れていない。
「やったあ!」
落ちてしまう前に卵を取り出し、インターネットで購入しておいた孵卵器に移した。
ただ、この時点ではまだ、ヒナが生まれるかどうかは半信半疑だった。
「ずいぶん昔に、鵜が卵を産んだという事例が広島の方であったらしいのですが、無精卵(※受精せずに産まれる卵で、ヒナにならない)だったそうです。だから今回も無精卵かもしれないと思って」
そこで、有精卵かどうかを確かめるための「検卵」が行われた。卵に光を当て、透かして見る。すると、2つの卵の中身は空っぽで、無精卵に見えた。しかし、3つ目の卵は全体が黒っぽく、ところどころに血管らしき筋が見えた。有精卵かもしれないと沸き立つが、まだ確定はできない。
そこで動物病院の獣医師が呼ばれた。緊張する関係者が見守る中、獣医師が卵をガラス板の上に置く。すると、卵がかすかに動き、獣医師は、「ご懐妊!」と叫んだ。
それから、急に忙しくなった。奇跡の瞬間を見逃すまいと、孵卵器の前にビデオカメラを設置して待つ日々が続く。
それにしても、どうやって育てたらいいのだろう!? 何しろ、まだ海鵜の人工飼育の前例は日本に皆無なのだ。
鵜匠たちは「できることはなんでもやろう!」と精力的に調査を開始。京都市動物園を訪れ、エサの量ややり方などのアドバイスを受ける。また、多摩動物園に川鵜(川や湖に生息する鵜の仲間で、海鵜より小さいのが特徴)の飼育記録があると聞き、すぐに取り寄せた。そうやってヒナを迎える準備を整えながら、ひたすら「無事に孵化してほしい」と願い続けた。
そして、ある朝のこと。卵にほんの小さな穴があいていた。
ついに、始まったのだ。
夕方になると、穴は5ミリほどに広がった。中からは、ピーピーというかすかな鳴き声が漏れてくる。そして深夜、ついに卵にヒビが入り始めた。三人の鵜匠と観光協会の専務の四人は、じっと様子を見守った。ここが正念場だ。自力で殻が破れず、途中で死んでしまうヒナもいるからだ。
「がんばれ!がんばれ!」
固唾をのんで見守る中、ヒナは殻からはい出してきた。まだ目も開かず、毛もなく、ピンク色の小さな体をしている。
「出たー!」
四人の歓喜の声が響いた。
京都生まれの海鵜が誕生した歴史的な瞬間である。
鵜匠たちは、すぐに愛情をこめて世話を始めた。アジやイワシをペースト状にし、注射器のような器具で、数時間ごとに口の奥に入れる。赤ちゃん鵜は小さい体ながら、ピーピーと餌をねだった。
ヒナは順調に育ち、黒い羽が生え、鳥らしく変化していった。餌の量も増え、魚の買い出しや餌の準備で、鵜匠たちは日々バタバタである。
「観光協会と鵜飼で、ただでさえ忙しいのに、大変ですね!」(私)
「大変ですけど、一緒にいられるのはとても楽しいんです」(澤木さん)
生後45日となった今(取材時)、体重1775グラム、体長50センチとずいぶん立派に育った。それでも、まだまだ仕草は甘えん坊そのもので、「ピョロー!」と鳴いては、澤木さんの顔を見上げる。澤木さんは、お母さん鳥が餌をあげる時のように口を近づけた。
「わあ、ラブラブですね!」
見ているこっちの胸がキュンとしてくる。
「普通の鵜だったら、こんなことしたら噛まれますけどね!」
そう澤木さんが指差した顎には、鵜に噛まれた傷跡がはっきりと残っていた。
「鵜は、完全には人に慣れないんです。でも野性味が残っていないと魚を捕らないんで、それでいいんです。それに、私にとっては鵜と触れ合う時間はとても楽しいので!」
そうだ、野生の本能を利用した漁が、鵜飼なのだ。
「たとえなつかなくても、信頼関係を築くことはできるんですよ。普段から怖がらせないように、話かけたり。『今日は暑いなあ』なんて。首をもんであげると、気持ちいいらしく喜びます」
と澤木さんはニッコリと笑った。
「鵜がやる気を失っちゃうこともあるんですか?」
「ありますよー! 本当に賢い鳥なんですよ。『今捕っても吐かされるわー』とか『もうちょっとしたら餌もらえるわー、プカプカしとこ!』みたいに、魚を捕らなくなっちゃうこともあります」
そういう時は、少し鵜飼への参加を休ませたり、餌の量を減らしたりして調整するそうだ。そんな風に野性味を保ちつつも、人間との信頼関係を作ること。その微妙なさじ加減も鵜匠の力量のひとつなのだろう。
その一方で、澤木さんに甘え切っているこの「箱入りムスコ(ムスメかもしれないけど)」を前に、「この子も無事に魚を捕れるんでしょうか?」と思わず尋ねた。
「どうでしょうね。まだ自分で魚を捕ったことがないので、わからないですね。でも、捕ってくれるとは思うんですけどねえ」
と彼女は願うように言った。「とにかく、デビューは泳ぎがうまくなってからですね」
現在40代となった澤木さんにとって、鵜匠を続けることは体力面でも経済面でも決して楽ではないという。鵜匠だけで食べていければ良いのだが、鵜飼は夏しかできないので、やはりそれも難しいらしい。だから、若い後継者もなかなか現れない。
それでも、と澤木さんは続けた。
「とにかく、やれるうちは続けたいです。船頭さんの中には80代の方もいるくらいだから、やろうと思えばあと何十年もできるんですよ。それに、13年も(鵜飼を)やっていても、こんなことが起きるんだから、本当に面白いですよね!」
そう言いながら、小さな鵜を優しくなでた。鵜はまた得意げに「ピョロロー!」と声をあげた。
「あ、そうだ!」と最後になって私は、「この子にもう名前はあるんですか?」と聞いた。
「今、ちょうど募集中なんですよ!」
と、澤木さんは名前募集のチラシを指差した。
そうか、キミはまだ名前はないんだね。
何もかも、これからなんだね、と心の中で小さな鵜に話しかけた。
大勢の期待を背負うこの箱入りムスコが、泳ぎをマスターし、デビューできるかどうか。もうすぐ鵜匠たちは、この子を川に連れていき、泳ぎや魚とりの訓練を行うつもりだ。そして最終的には他の鵜と同じ小屋で育てたいと考えている。
澤木さんは、ある日のブログにこう書いている。
「これからは、鵜飼を一緒にしていくパートナーとして、ヒナちゃんを育てていけるように、私も子ばなれできるように気持ちの準備をしなければ」
本来は泳ぎのプロである鵜に、人間の方から技を教えこむなんて、これまた面白いことになりそうだ。でも、そうしなければこの子は、鵜飼のパートナーになれない。鵜匠たちの前例のないチャレンジは続いていく。
とりあえず私の方は、「我が輩は、“伝説”の海鵜(ウミウ)である。名前はまだない。そして、まだ泳ぎも魚の捕り方も知らない」とパロディ小説の書き出しをちょっとだけ変更してみる。
小説の続きは、まだこれから次第である。
川内 有緒 ノンフィクション作家
日本大学芸術学部卒、ジョージタウン大学にて修士号を取得。
コンサルティング会社やシンクタンクに勤務し、中南米社会の研究にいそしむ。
その合間に南米やアジアの少数民族や辺境の地への旅の記録を、雑誌や機内誌に発表。
2004年からフランス・パリの国際機関に5年半勤務したあと、フリーランスに。現在は東京を拠点に、おもしろいモノや人を探して旅を続ける。
書籍、コラムやルポを書くかたわら、イベントの企画やアートスペース「山小屋」も運営。
著書に、『パリでメシを食う。』(幻冬舎)、『パリの国連で夢を食う。』(イースト・プレス)、そして第33回新田次郎文学賞を受賞した『バウルを探して〜地球の片隅に伝わる秘密の歌〜』(幻冬舎)がある。