その日菅原通さんは、降りしきる雪の中で鹽竈(しおがま)神社の博物館の前に立っていた。彼は、岩手県和算研究会の事務局長だ。一関に住んでいるにもかかわらず、私の「和算のお話を伺いたい」という一言で、わざわざ来てくれていた。
本当にありがとうございますと挨拶すると、いえいえ〜、と優しく微笑んだ。ああ、この人は本当に和算が好きなのだろうな、と思った。
ゆっくり話ができる場所に移動しようと、菅原さんの車に乗り込んだ。しかし、神社周辺にも駅前にも喫茶店ひとつない。国道沿いを走ってみるが、ファミリーレストランすら見あたらない。雪はますます激しくなっていた。
高校の数学の先生だった菅原さんが和算を始めたのは、40代半ばのことだそうだ。
「高校時代の恩師がやはり数学の先生でね。岩手県の和算研究会長も勤めた人(安富有恒氏)だったんですよ。先生を囲んで集まったのがきっかけで、自分も和算をやり始めて」
雑談をしながら、車は北に進む。もうそこは景勝地として有名な松島だ。高台にようやく大きなホテルを見つけて、ロビーで暖かいコーヒーを頼むとほっとした。大きなガラス張りのロビーからは、吹雪の向こうに島が点々と浮かんでいる。あまりの絶景に、「ああ、松島や」という句が生まれたといわれる、あの風景。
雪の松島というどこか現実離れした光景を前に、話は平成から江戸へとタイムトラベルしていった。
“未解決問題”というタイムカプセルが開いたのは、2011年のことだった。全国和算研究大会のメンバーが鹽竈神社を訪問した際、「こんなに未解決問題があるのは残念だ」という声があがる。おりしも3月には東日本大震災が起こったばかりだった。
「震災で教え子や研究会の会員の中にも家族を亡くした人もいました。だから、鹽竈算額を解くことで、復興祈願にしたいという声が上がったんです。解答して奉納することが研究者としての務めだと」
11人の研究会メンバーが「やろう」と立ち上がった。
「中心になっているのは元国立大学教授や現大学教授、そして元高校教員や現高校の教員です」
そうだったのか。最初は、ただ知的好奇心で解こうとしているのかと想像していたが、それだけではなかった。
「全問を解いたら冊子を作り、鹽竈神社に奉納する予定です」
と菅原さんは力強く言った。こういう形の復興祈願もあるのかと感じ入った。
その時、鹽竈神社の博物館で会った神社職員の方の何気ない一言を思い出した。彼は私にこう言った。
「菅原さん達がやろうとしていることは、見方を変えれば過去の和算家たちと同じことなんですよね」
その通りだ。11人は、まるで「算額奉納」という江戸時代の風習をいまに甦らせようとしているように見えた。
―どの問題は誰などの担当を決めてるんですか?
「いや、それぞれ好き勝手にやってます。みんな得意分野があるんでね。一人で8題解いている人もいます。でも、私はせいぜい2題」
―どれくらいの時間を費やしてるんですか?
「私の場合は、調子いい午前中に毎日2時間くらい。10時間くらい考えても全然分からないこともありますよ。でも散歩していたら糸口が見つかったり、自分のミスに気づいたり。解答ができたらお互いにチェックします。簡単なミスもけっこうあるので」
―やっぱり難しいですか!
「難しいですねえ。算額の問題はほとんどが幾何学の問題です。そして、楕円や円、そして多角形が複雑に組み合わされて美しい図形になっています。解くまでには、様々な過程をたどることになります。それに、今の私たちは西洋の数学のやり方で解いているんです。奉納した和算家の解答法はわからないですからね!」
西洋の数学で解くと解答が10ページ以上にわたる問題もあるという。しかし、和算家はもっとシンプルは方法で解いていたのかもしれない、と語る菅原さんはとてもワクワクして見えた。
「楽しんでるんですね……!」
と私が感心すると、少しはにかんだような表情になった。
「うん、楽しんでます!分かるっていうのは、楽しいことですよね!」
先述の通り、現代人は和算のノウハウをすっかり失ってしまった。だけど、分からないからこそ、解く面白みが残っているのかもしれない。純粋な娯楽として楽しんでいた、江戸時代の人々のように。
菅原さんは、和算の歴史をニコニコと語ってくれ、話は「遊歴算家」というすごい人々に及んだ。
遊歴算家とは、日本各地を旅して数学を教えたというエラい人たち。彼らの行く先には必ず数学ファンがいて、「江戸から先生が来た!」とスーパースターのように歓迎されたらしい。そうやって、遊歴算家は地方に埋もれた才能を発掘し、弟子を増やしていった。
「遊歴算家っていうのは戦いなんですよ。全国に武者修行して!宮本武蔵と同じです」と菅原さんは熱く語る。
彼らは、各地の数学道場の扉を「たのもう!」と叩き、道場破りも行ったらしい。そして、セオリー通りに「いざ対決!」という展開になるが、題材はあくまで「算術」である。
「やり方は剣術と同じ。数学問答をするわけ。だいたい、2、3日から1週間かけて3題くらいを解いたらしいです」
まったく、今では考えられないような悠長な対決なのである。
「そんな遊歴算家の代表格が、山口和(かず)ですね」
と菅原さんは続けた。
山口和、その人こそ千葉胤秀と一戦交えた人物だ。
和は、もともとは新潟県の大きな農家の家に生まれ、地元の数学者の弟子になったものの、物足りなくなって江戸の数学道場に入った。やがて道場でトップクラスの実力をつけると、彼は地方を巡ることを決意。「きっと地方には数学を勉強したくてもできない子もいる。中にはすごい天才もいるかも」と、全国行脚の旅に出た。
松尾芭蕉に憧れた和は、“みちのく”から旅をし、仙台にたどりつく。そこで出会ったのが、東北のドン・千葉胤秀だった。
千葉も同じく農家の出身。数学が大好きで、一関の和算家に弟子入りし、往復30キロの道のりを通い続けたという努力家。東北一円に3000人の弟子を抱え、この辺では押しも押されぬ大御所である。
二人は、出会うなりすぐに数学問答を始めたと伝えられている。対決の場所に関しては諸説あるが、一説によればこの松島だった。
「それで対決はどうなったんですか?」と私は先を急いだ。
「二人は、計28題を出し合ったそうです」
44歳の胤秀とまだ年若い山口和。当然、ホーム試合となる大御所・胤秀は勝たねばならない。
「それでねえ、最終的には千葉が負けたっていわれているんだよね。それで千葉は、山口和に『弟子にしてくれ』と頼んだらしい。でも和は、『それより江戸の道場に行った方がいい』と勧めたそうです」
あっさりと負けを認め、弟子入りを頼むなんて本当に潔い人だ。胤秀は、勧め通りに江戸に出て、有名な数学道場に入った。そこで研鑽を積み、ついに道場の免許皆伝を授与された。そして、1830年には『算法新書』という本を編纂し、この本はめでたく大ベストセラーとなった。そして故郷に錦を飾り、6年後の1836年、胤秀の一門は鹽竈神社に問題を奉納したのだった。
そうか、だからあれは傑出した難問なのだ。
そこには、胤秀の生涯がすべて凝縮されている。いや、江戸の和算の総決算といってもいいかもしれない。なにしろ時は幕末。鹽竈算額は、遺題継承や算額奉納といった和算リレーの最後の走者に位置する。
話しながら菅原さんは、江戸時代に思いを馳せているようだった。
「鹽竈神社の算額は、最後の華だと思います。あの頃、日本はもう尊王攘夷で和算どころじゃなくなった。でも、東北だったからまだ影響が少なかったから和算をやれた。だから千葉胤秀は、最後の和算家の一人なんですよね・・・」
そう彼が言う通り、200年以上も咲き続けた和算の華は、唐突に摘みとられた。ペリーの黒船の来航、そして明治維新。
明治新政府は、西洋の数学をカリキュラムの中心にすることを決め、和算は歴史の片隅に追いやられた。
さて、肝心の鹽竈神社の難問とはどのようなものなのだろう。
「鹽竈神社の算額の題一問です。きっとあの算額の目玉とも言える問題で、たぶん一番難しいと思う」
取り出した紙には、4本の棒が突き刺さったピラミッドのような奇妙な図形が書かれていた(図)。
シンプルに言うなら、こういう問いだ。
正四面体の各頂点からその対にする面の重心(中央)に向かって棒を指し、穴を開ける(正四面体なので棒はあわせて4本)。このとき、指した棒によってできた穴の体積がいくらになるのか、という問題である。
「なるほど〜」と曖昧にうなずくが、今や中学校レベルの数学もあやしい私には、解答法は想像もつかない。
「いやあ、これは大変ですよ。普通に円柱と円柱が組み合わさっただけでも大変なのに、それが4本ですよ!」
私が首をかしげていると、「あとね、面白いのはこれです。舟の帆なんです」と、今度は舟の帆を模した図形に、大小の円が2つ描かれた別の問題を出してきた。
「これはねー、単純だけど難しくて!でも、見方を変えれば高校生でも解ける問題になるかもしれない。それが面白いんですよね」
帆が題材になる通り、和算は身近なテーマが多い。継母が財産の相続を決めるための「継子立て」や、泥棒が分け前をわけるための「盗人算」、年の離れた恋を題材にした問題まで。だから、庶民に人気があったんだろう。
菅原さんたちは、すでにおおかたの問題の解答法を見つけており、全問解明まで王手をかけている。
「でも全部が解けちゃったら、ちょっと寂しいですね」
と思わず私が言うと、いやいやと彼は首を横に振った。
「まだ宮城県だけでも算額はいっぱいありますから。まあ、鹽竈神社ほど難しいものはないけどね」
高校時代の先生を通じて和算の世界に入り、岩手県の和算研究会の事務局長を務めるようになった菅原さん。その先生は昨年病気で亡くなり、地元の新聞でも報じられた、と記事を見せてくれた。
―— 一関市や県内の算額調査、解明に力を尽くした。(中略)多くの教え子から慕われる様子は3000人の弟子がいたという千葉胤秀をほうふつとさせた(岩手日日新聞)―
そういえば、千葉胤秀も一関の人だったっけ。
その時、はっと気づいた。そうか、そうだったのかあ!
菅原さんが一関出身であることは、たぶん偶然ではない。彼が今持っている和算のバトンは、千葉胤秀の門下から受け継がれてきたものに違いない。
「私が一関第一高校の生徒のとき、安富先生が数学の教員でした。その先生は、やはり和算の研究者であった校長先生から受け継いだそうです。また、江戸や明治の和算家を先祖にもつ同僚の数学教員もいました」
もちろん、その“和算家”が胤秀の弟子だったかまでは分からない。でも、きっとそうだったに違いないと私は嬉しくなった。どの本を読んでも「和算はすたれてしまった」と書かれていたが、そうではなかった。菅原さんたちは、意識しようとしまいと、千葉胤秀一門の末裔なのだ。時は流れ、時代は江戸から平成になったけれど、バトンはちゃんと引継がれていた。
今年はいよいよ算額の解答冊子ができあがる。そのときは、奉納の儀式や記念の講演(土倉保 東北大学名誉教授)が予定されている。
「せっかくだから、11月とか紅葉がきれいなころにやりたいですね」
と菅原さんは微笑んだ。その時には、また誰かがまた和算のバトンを受け取りにくるのかもしれない。
気づけば雪は、いつの間にか止んでいた。明日は、晴れわたった松島が見えるといいな、と思った。
川内 有緒 ノンフィクション作家
日本大学芸術学部卒、ジョージタウン大学にて修士号を取得。
コンサルティング会社やシンクタンクに勤務し、中南米社会の研究にいそしむ。
その合間に南米やアジアの少数民族や辺境の地への旅の記録を、雑誌や機内誌に発表。
2004年からフランス・パリの国際機関に5年半勤務したあと、フリーランスに。現在は東京を拠点に、おもしろいモノや人を探して旅を続ける。
書籍、コラムやルポを書くかたわら、イベントの企画やアートスペース「山小屋」も運営。
著書に、パリで働く日本人の人生を追ったノンフィクション、『パリでメシを食う。』『バウルを探して〜地球の片隅に伝わる秘密の歌〜』(幻冬舎)がある。