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国内外で絶賛される球屋北原煙火店の花火×音楽のショーは12月20日にぐんまフラワーパーク、21日に赤城高原牧場クローネンベルク・ドイツ村で見ることができる
年間200ヵ所で花火をあげている球屋北原煙火店
第2回カタール国際花火コンテスト(2004年)で優勝した際の様子
海外で獲得してきた数々のトロフィー
球屋北原煙火店の四代目・北原清さん。
2000年に海外進出し、今では月に2,3回、海外出張する
某中東の国王の誕生日会に使われる三尺玉

未知の細道

30
Text & Photo by 川内イオ
一部写真提供: 球屋北原煙火店
第30回 2014.11.14 update.
  • 名人
  • 伝説
  • 祭り
  • 挑戦者
  • 穴場

世界の夜空に火の花束を 世界が認めた花火職人の終わりなき旅

世界の花火コンテストで引っ張りだこの日本人がいる。音楽と花火を掛け合わせたショーで優勝、入賞経験多数。アラブの王族にもその名を知られる群馬の花火師は、今日も世界を駆け巡る。

群馬県みどり市

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ある日、フランスの花火業者から連絡があった。ある中東の国王の誕生日を盛大な花火で祝う計画がある。そこで、あなたのところの花火を打ち上げたい、という内容だった。

それは光栄なことだと快諾したところ、国王の兄弟と親戚、側近が花火大会と工場の視察をするためにわざわざ日本までくるという。
中東からの客人は花火大会を見た後、本当に群馬県みどり市の山中にある花火工場までやってきた。その国の駐日大使も同乗していて、警察の護衛車両が先導している。

球屋北原煙火店の花火工場の近くには長閑な風景が広がる

挨拶をして花火工場を案内したところ、ある花火を見て、客人のテンションが上がった。
「これが良い! いくらお金をかけてもいい。絶対に持ってきてほしい」

その花火は、直径90センチ、重量約280キロ、 開花高度、開花直径がともに約600メートルに達する超巨大な三尺玉だった。一時期、ダイエットグッズとして流行ったバランスボールを二回りぐらい大きくしたような見た目をしている三尺玉は、ひとつ200万円から300万円もする。彼らは、それを3個欲しいと言った。そのほかに尺玉を数百発、打ち上げたいという。
ずいぶんと盛大な花火になるが、話を聞いたら国王が兄弟や親せきを海辺の別荘に招いて、プライベートで楽しむそうだ。
アラブの人たちは花火が好きなんだな。

それまでにもドバイやカタールに呼ばれて花火を打ち上げてきた男は、はるばる日本まで来た王様の使者を眺めながらそう思った。
その男こそ、明治時代から続く球屋北原煙火店の四代目、23人の従業員を率いて世界中の花火大会で優勝し、世界の花火業界で最も名を知られた日本人である北原清である。

DJから花火師へ

「気づいたら花火の中で育ってた」と微笑む北原さん。物心ついたときから花火師である父親の手伝いをしてきたが、それは決して楽しい時間ではなかったという。

「夏はぜんぜん遊べなくて、海にも行けなかった。親父が現場に行くとしばらく帰ってこないんで、犬の散歩をしたり、エサをあげたり、親父がやることが紙に書いてあってそれを全部やらなきゃいけない。それに昔は桐生ボート(競艇場)、伊勢崎オート(オートレース場)、前橋競輪の仕事で、『今日ありますよ』っていう合図の花火を上げなきゃいけなくてね。それぞれ時間がずれているから、朝7時ぐらいから回るんだけど、お袋に早く行きな!って叩き起こされて。中学1年生の時からカブに乗って回ってましたね」

遊びたい盛りに遊べなかった。
その反動というわけではないないだろうが、大人になっても「花火に興味がなかった」という北原さんはDJやダンスにはまり、週末は群馬、東京、横浜などに繰り出して、月曜に自宅に帰るという生活を送っていた。

しかし、早すぎる父親の死が全てを変えた。
父親の跡を継ぎ、孤軍奮闘する母親の姿を見て、北原さんは「大変そうだな……」と思うようになり、数年にわたって母親が切り盛りした球屋北原煙火店の四代目に就任する決意を固めたのだ。

日本では、夜空に打ちあがる花火の「ドーンッ」という音、火花が散る様子まで愛でるように楽しむが、海外では音楽と花火を融合させたリズミカルな花火ショーが主流だ。
北原さんは海外のショー的要素を日本でいち早く取り入れたことで知られる。

きっかけは、海外の花火業者から送られてきたDVDだった。画質の悪い映像に映った花火ショーを見て「びっくりした」北原さんは、スペインの花火大会に足を運ぶ。そこで本場の花火ショーを見て度肝を抜かれた。

「たまげましたね、本当に。日本とは全然違って、これはすごい! と思いました」

そこで拍手を贈って終わってしまう人もいるだろうが、北原さんは違った。
なにせ、元DJ。音楽好きの血が騒ぐ。
ときは1990年代。パソコンで音楽を編集する術も知っていた北原さんは、日本でまだ誰もやっていなかった花火ショーに挑んだ。

この決意が、世界への道を拓いた。
同時に、冗談のような世界のカオスを知ることになる。

リアルに起きた海外珍事件簿

2000年、北原さんは第1回上海国際音楽花火フェスティバルに参加した。
参加国はスペイン、イタリア、オランダ、オーストラリア。初めての海外進出かつ初めての花火ショーで、日本の実力を見せてやろうと勢い込んで現地に乗り込んだ北原さんを待っていたのは、まさかの事態だった。

「オランダ、スペイン、イタリアがね、球(花火)をこれだけ中国に頼んであるから、うまく使ってこの曲でプログラムを組んでくれって言うんですよ。もう困りましたね。なんで人のやつまで俺がやんなきゃいけないんだよって。でもまあ仕方ないんで、自分のところのやつを準備しながら設計しましたよ」

北原さん、笑顔から優しさが滲み出るような良い人なのである。結局、このとき、上海で披露された5ヵ国のショーのうち4つが北原さんのプログラムになり、唯一、自前でプログラムを組んだオーストラリアは失敗。当然ながら、北原さんが優勝した。
この優勝が海外進出の足掛かりとなり、翌年以降、怒涛の勢いで海外のフェスティバルや大会から招待され、受賞を重ねることになるのだから、何が幸いするかわからない。

しかし、珍事件も連発していた。
オランダ、スペイン、イタリア、日本、中国が参加した大連の国際花火大会でのこと。
大会に向けて打ち上げ花火の筒を並べていたのだが、すぐになくなってしまう。
中国では旧正月の時、爆竹を鳴らし、花火を上げて派手に祝う。町中の露店ではかなり大きな花火を打っているそうだが、その花火を打ち上げる筒がないので、市民がことごとく持って行ってしまうのだ。

花火を打ち上げるための筒。大きさの違う海外で生産された花火用の筒もある

この盗難事件は意外な展開になった。
「現場にも入られて、並べてあった連発花火用の筒も50ケースぐらい盗まれちゃって。それで、大連の役人と花火大会の関係者に、毎日毎日盗まれるから花火を上げるのは無理ですと言ったんです。その後、大連の副市長と警察の偉い人と10人ぐらいで消防署に向かいました。なぜかって、犯人が消防署員だったから。それで取り返しに行ったんだけど、もう40ケースはなかったね。消防の職員が露天商に化けて売った後でした」

まるでギャグのような話である。
それでも花火大会は開催され、北原さんはここでも優勝した。
海外では、何でも起こり得る。
欧州も中国と似たり寄ったりだ。

ドイツのベルリン音楽花火大会は3日間の大会で、日毎に優勝チームを決め、最終日に総合順位を争う方式で、北原さんと娘さんのチームは初日の優勝を勝ち取り、総合でも3位になった。それで喜んだのもつかの間、花火大会を計画したイベント会社の社長が2日間の売り上げ約5億円を持ち逃げ。何の経費も出ず、全て自腹になってしまった。
花火の本場のひとつであるスペインでは、露骨なアウェイの洗礼を受けた。日本の某番組の企画で、現地でスペインのチームと花火対決したのだが、もはやルールはあってないようなものだった。

「制限時間が5分なのに、スペインは7分も打ち上げてね。花火の量も、うちが10箱しか用意してないのに、スペインの業者は3トン車いっぱい。これじゃ、勝負にならない。一応、一般審査員も125人いるんだけど、地元のお偉い方々がスペインに勝たせたくて、半分ぐらいは向こうの業者のなーなーの人だった。やられちゃいましたね」

赤字でも海外進出する理由

ここに書いたのはごく一部で、北原さんは海外に行く度にいろいろな珍事件に見舞われている。それだけ苦労しているのに、海外での大会参加はほとんど赤字だと聞いて驚いた。

参加チームに与えられる予算は、だいたい200万円から500万円ぐらいまで。これで輸送費など全てを賄わなければいけないのだが、現地まで船便でコンテナを送る場合、それだけで数百万円かかることもあるという。予算を超えた場合は、当然持ち出しになる。

航空券やホテル代はスタッフ2、3人分まで大会側が持つそうだが、北原さんによると準備には最低5、6人のスタッフが必要で、追加するスタッフの渡航費、滞在費も自費。しかも、花火の設置には4、5日はとられるから、経費は膨らむ一方だ。優勝したら賞金が出る大会もあるとはいえ、トータルで考えるとマイナスになることも多い。
それでも海外の大会に出続けるのは、2つの理由がある。

ひとつは宣伝。海外の大会で良い成績を収めれば、世界的に球屋北原煙火店の名前が知れ渡る。実際、冒頭に記した中東の国王の誕生祝の話も、大会で顔見知りのフランスの花火業者からの紹介だったし、世界最大のドキュメンタリーチャンネルであるアメリカの「ディスカバリーチャンネル」に取り上げられたこともある。球屋北原煙火店の知名度は高く、今では年間に4、5件、海外の大会へ招待されるようになった。日本でも、海外の大会で優秀な成績を収めている北原さんは有名人で、その宣伝効果もあって、なんと大小含めれば年間200件の花火大会のプログラムを請け負っている。
ただし、宣伝だけが目的ではない。

海外で北原さんのプログラムは絶賛され、リスペクトされている。どれぐらいの影響力があるかというと、昨年、韓国のソウルで開催された国際花火フェスティバルでは、運営側が「日本のチーム(北原さん)がいろいろなキャラクターの花火を上げる」と大々的に宣伝したところ、有料にもかかわらず14万人を動員し、チケットは完売。一昨年までの観客数は7万人程度だったから、単純に考えると北原さんの花火を見たさに、新たに7万人が足を運んだ計算になる。

なによりも北原さんの心を捉えているのは、海外の人が北原さんの花火を見た時の反応だ。

「忙しくても海外に行くのは、自由にできるから。日本だと静かにやって静かに終わるけど、海外だと『わー!』って歓声が聞こえるんですよ。日本の花火は球が良いんで、向こうの花火屋も驚いちゃう。ドバイでもカタールでも、『言葉が出ない』『パーフェクト』だって言ってもらってね。海外の業者には、あなたの花火はすごい、欲しい、売ってくれってよく言われるけど、値段を聞いてびっくりするんですよ。日本の花火は高いから(笑)」

きっと、日本で花火を作って上げているだけだったら、観客の大歓声や外国の同業者の率直な称賛の声を聞く機会はなかっただろう。一度、自分の花火が世界で通じる、喜ばれることを体感したら、多少、大変なことがあっても海外に出たくなるのは理解できる。
しかも、それが海外での営業にも繋がっているのだから、一石二鳥とはこのことだ。

日本での予想外のリアクション

北原さんは言う。
「挑戦するのが面白い」。
その挑戦は、日本でも続いている。

音楽と花火をかけ合わせた花火ショーの世界的な第一人者である北原さんは、日本でも花火ショーを売り込んできた。
しかし、反応は期待したものとは違っていた。音がうるさいと言ってボリュームを絞られたり、苦情が来るからとショーの途中で音楽を切られたり、遊園地じゃないから音楽はいらないと言われたこともある。

どんなに小さな花火大会でも、何をどんなタイミングで上げるかなどの構成は綿密にプログラムされている。北原さんによると、20分のショーなら、構成を考えるのに1週間はかかるそうだ。花火師にとって、20分でも1時間でも、自分の持ち時間で上げる花火はひとつの「作品」である。それを「うるさい」「音楽なんていらない」と根本から否定されるのは、どんな気持ちがするだろう。

それでも、北原さんは花火ショーを続けてきた。現場で用意されたスピーカーの質が悪くて音が割れるようなことが続くと、プロの音響が使うレベルの高額のスピーカーを自社で仕入れて、会場に持参した。お客さんに喜んでもらうために、常に新しい曲を取り入れようとCDを買い続けた結果、今ではCDショップが開けるほどの枚数があるという。

海外での輝かしい実績とともに、日本でも花火ショーを広めるための地道な努力があって、少しずつ突破口を開いてきたのだ。
北原さんの挑戦は、日本の花火業界にも向いている。
ほかの多くの工業製品と同じく、いま世界中の花火を作っているのは中国だ。北原さんも中国に進出し、花火大会で大量に使うような小さな花火は現地で生産し、自社で使うだけでなく、日本の花火業者に卸しているのだが、実現までのハードルは高かった。

「欧州の注文を受けて大規模に作っている工場は、日本の注文を受けないんですよ。日本は少ししか注文をよこさないうえに、日本と同じような質で作らないと返品されるから、日本は一番うるさくて金にならない、日本の仕事はしたくないって。だから、うちの仕事を受けてくれる工場を探すところから始めました。工場が見つかっても、最初の頃はでき上がる花火のほとんどが使えなかった。だから、うちの職人が半年ぐらい現地に滞在したり、毎月10日ぐらい通って教えて、3年ぐらいでようやく使えるようになりましたね」

現地で指導を重ねて、ものになるまで3年。
商売や効率だけを考えたら、中国から手を引いても良さそうな話である。
しかし、そこにはある思いがあった。

「日本の小さい花火屋さんだと、家族で作っているようなところがほとんどだと思う。そういう家族経営のところでは、同じ手間をかけるならよりお金になる大きい球(花火)を作りたいんだけど、そうすると小さい球が作れない。それでよその会社から買うんですけど、日本製のものはすごく高いんですよね。だから、小さいものは中国で作って安く卸してあげれば喜ぶかなって」

日本の花火業界は、家族経営やそれと似たような小規模な事業者が多い。北原さんは、小さい花火を大量に作る余力のない同業者をサポートしたいという思いもあって、卸業を手掛けているのだ。実際、中国で丁寧に作った小さな花火は日本でよく売れているというから、同業者にも喜ばれているのだろう。

逆に、日本製の繊細で可憐な花火を欲しいという海外の花火業者のために、海外の花火の寸法の基準であるインチに合わせた花火を日本で作り、輸出もしている。

花火師というと武骨な職人のイメージが強い。よく日に焼けて、言葉数も多くない北原さんも一見、職人そのものだ。しかし、彼の言葉の端々からは花火師としての気概とともに、新しいものを取り入れる柔軟性、そしてビジネスマン的な視点がうかがえる。そういった感性は、もしかするとDJやダンスを楽しんでいた若かりし頃に培われ、海外でのさまざまな経験によって着火されて、花開いたのかもしれない。そう思った。

北原さんの挑戦は続く

北原さんは54歳のいまも、たいてい月に2回、多い時は月に3回、海外出張をしている。10年パスポートが3年で終わるという仕事ぶりで、「もうくたびれてきた」と笑う。

しかし、海外のコンテストに出る時には「前にやった演出はしない。常に新しいことをする。ほかに負けたくない」と力強く語るその口調からは、引退の気配はうかがえない。

北原さんにとって花火とは? そう尋ねると、一瞬考えた後、こう答えた。
「生まれた時から花火で食っていたうちなんで、俺も死ぬまで花火ですよね」

日本の男性の平均寿命は何歳だったっけ?
やはり、まだしばらく北原さんの花火を見ることはできそうだ。

そうそう、中東の国王の誕生パーティーの話には続きがある。
花火を見て満足した王様の使者たちは、北原さんにこう告げた。
全ての花火を茨城空港まで持ってきて欲しい、自家用ジェットを茨城空港にとめるから、それで持って帰る、と。
北原さんは仰天した。花火の運搬には許可がいる。海外輸出となればなおさらだ。手続きなしで、花火を輸出することはできない。

ところが、客人たちは余裕の態度で、「問題ない」という。その自信の根拠は、大使の外交特権で機内に運び込むから、ということだった。運び込むといっても、280キロの三尺玉とそれを打ち出す筒は、大砲みたいなものだ。北原さんは「そんなことできるのか?」と激しく疑問に感じながらも、指定された日に、2トントラック2台を手配して、三尺玉と筒を茨城空港に運ばせた。

しばらくして、大使から電話があった。
「……空港に入れてくれない」
北原さんはズッコケそうになりながら、「だから言ったこっちゃない」と嘆息した。
結局、用意した花火は国王のもとに運び込まれることなく、ドタバタ騒動から3年経ったいまも北原さんの工場の倉庫に眠っている。

この話は北原さんの海外珍事件簿に収まり笑い話のひとつになっていたが、客人たちは北原さん、そして特大の花火のことを忘れていなかった。今年に入ってまた連絡があったのだ。12月、国王の誕生日パーティーに向けて世界の花火業者を集めたコンペが行われるという。そこで、国王のために作った三尺玉を使ったプログラムを提案することになる。
今度は大丈夫なんですかね? と尋ねると、北原さんは「いやー、どうなんですかね」と首をひねって苦笑した。

未知の細道とは
ドラぷらの新コンテンツ「未知の細道」は、旅を愛するライター達がそれぞれ独自の観点から選んだ日本の魅力的なスポットを訪ね、見て、聞いて、体験する旅のレポートです。
テーマは「名人」「伝説」「祭」「挑戦者」「穴場」の5つ。
様々なジャンルの名人に密着したり、土地にまつわる伝説を追ったり、気になる祭に参加して、その様子をお伝えします。
未知なる道をおっかなびっくり突き進み、その先で覗き込んだ文化と土地と、その土地に住む人々の日常とは――。

(毎月2回、10日・20日頃更新予定)
今回の旅のスポット紹介
update | 2014.11.14 世界の夜空に火の花束を 世界が認めた花火職人の終わりなき旅
球屋北原煙火店
新しい技術を積極的に導入し、コンピューターを駆使した壮大な演出、音楽とのコラボレーションなど、常にエンターテイメントとしての花火を追求。国内だけでなく、海外のコンテストでも何度も優勝するなど、高く評価されている。
・本社:〒372-0038 群馬県伊勢崎市新栄町3805-8
・営業部 配送センター:〒376-0104 群馬県みどり市大間々町上神梅661-3
・WEB:球屋北原煙火店 公式サイト

ライター 川内イオ 1979年生まれ、千葉県出身。広告代理店勤務を経て2003年よりフリーライターに。
スポーツノンフィクション誌の企画で2006年1月より5ヵ月間、豪州、中南米、欧州の9カ国を周り、世界のサッカーシーンをレポート。
ドイツW杯取材を経て、2006年9月にバルセロナに移住した。移住後はスペインサッカーを中心に取材し各種媒体に寄稿。
2010年夏に完全帰国し、デジタルサッカー誌編集部、ビジネス誌編集部を経て、現在フリーランスのエディター&ライターとして、スポーツ、旅、ビジネスの分野で幅広く活動中。
著書に『サッカー馬鹿、海を渡る~リーガエスパニョーラで働く日本人』(水曜社)。

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