3月某日の早朝、僕は福島県喜多方市内を自転車で疾走していた。
ホテルで自転車を借り、ペダルをこぎ始めたのは6時40分。東京とは質が違う冷たい空気が目に染みて、ポロポロと涙がこぼれてくる。花粉症のせいで鼻水までたれてきて、傍から見たら完全なる奇人だけど、幸か不幸か道中には人の気配が一切ない。
僕は「朝ラー」の存在を確かめるために喜多方に来ていた。朝ラーとは、朝食としてラーメンを食べる喜多方の習慣を指す。徹夜で酒を飲み、朝方にラーメンを食べることとは似て非なるものだ。清く正しい一日の始まりに白ご飯とみそ汁、あるいは焼き立てのトーストを食すのと同じように、ラーメンをすする。それが朝ラー。喜多方観光物産協会のホームページには「朝ラーについて」という解説があり、「ずっと昔から『朝からラーメンを食べる』ことは喜多方の人にとってはごく自然なことであることに違いはありません」と断言されている。
本当に? 朝からラーメンを食べたら絶対にもたれるでしょう!? にわかには信じがたい。観光用に無理やり作られたムーブメントで、地元の人は普通の朝食を食べてるんじゃないの!? 疑り深い僕は、その奇妙な風習(?)が今もリアルに続いているのか、そもそもなぜ朝ラーが始まったのかを検証するために、そしてなにより朝ラーを体験したい! という想いに駆られて、喜多方にやってきた。それなのに、肝心の朝になって町中に人の姿が見えなくて、薄曇りの天気と同じように、僕の胸の内には不安という名のどんより雲が漂い始めた。
「大丈夫か、この取材!?」
涙と鼻水を流しながら全力サイクリングをすることになったその前日、朝9時10分新宿発の長距離バスに乗り、およそ5時間かけて喜多方市内の停留所に降りたった。
喜多方は「蔵の町」として知られるが、僕が蔵よりも気になったのは、大通りに人っ子一人歩いていないことだった。車は走っているけど、直線の道路を見渡す限り歩行者はゼロ。まぁ、オフシーズンの平日午後だし、雪が降っていたからその影響もあるだろう。
まずは腹ごなし。今回の取材の目的は朝ラーだけど、せっかく喜多方まで来たのだから、昼ラー、夜ラーもしたい。ちなみに喜多方観光物産協会によると、市内には110軒から120軒もラーメン屋がひしめいているそうで、朝ラーを提供しているお店も14軒あるとか。そのうち喜多方ラーメンの二大人気店、坂内食堂とまこと食堂がそれぞれ朝7時と7時半に開店しているそうで、その2軒には翌日朝の取材の申し込みをしてあった。
ということで、昼ラーは4年連続で食べログベストラーメン受賞、トリップアドバイザーの喜多方ラーメン評価1位の名店「食堂なまえ」へ! 時刻は15時、昼ラーのためにバスの中で空腹を我慢していた僕は、中華そば(喜多方ラーメン)をあっという間に食べた後、店主おすすめの極太手打ちラーメンも注文した。中華そばは、黄金色の透明なスープに、喜多方ラーメン定番の太麺。優しいしょうゆ味で、シンプルなんだけどぜんぜん飽きがこないのは、スープ、具材、麺のバランスが絶妙だから! 都会的な派手さはないけど、丁寧に作られていることが伝わってくるひとつの「作品」だ。極太手打ちラーメンは、店主が「喜多方にないようなものを出そうと始めた」というだけあって、麺の幅が中華そばの1.5倍はある極太手打ち麺がプリンプリン! 存在感がハンパない極太麺がだしの効いたスープとよくよく絡んで、2杯目なのにあっという間に食べ終えてしまった。
住宅街の一角に立つ食堂なまえ。市内には「生江食堂」という店もあるが、こちらは無関係
お腹いっぱいになったところで店主の生江(なまえ)さんに話を伺うと、思いがけず喜多方ラーメンの歴史物語を聞くことができた。
「喜多方ラーメンっていうのは昔の支那そばで、近所の源来軒の藩欽星さんが夜に屋台を引っ張って支那そばを売り始めたのが始まりでね。その支那そばが人気になったひとつのきっかけは、NHK。喜多方ではその昔、蔵を持つことが一人前の証と言われていたこともあって市内に蔵がたくさんあるんだけどね、維持費がかかるから壊す人が多くなったんだ。それで(市内にある)金田写真荘の社長がもったいないからって蔵の写真を撮って展示会をしたんです。それが昭和50年(1975年)にNHKの番組『新日本紀行』で取り上げられたことで、観光客が蔵を見に来るようになって、ついでにそばを食べて行く。それからブームになったんだ」
店主の生江(なまえ)さん。「さっぱりしたの好きだから」ということで、ラーメンも淡麗!
なるほど! 喜多方の蔵とラーメン、町の二大名物は深くつながっていたのである!
朝ラーの取材に来たのだが、歴史の話も面白い。こうなったら源来軒に行くしかない、ということで夜ラーは源来軒に決定。
店の看板に大きく「元祖」と書かれている源来軒では、チャーシュー麺をチョイス。「食堂なまえ」の中華そばに比べると、スープの醤油色が濃い。初代・藩欽星さんの味をいまも受け継いでいるそうで、「これぞ支那そば!」という古き良き伝統を感じさせる昔ながらの醤油ラーメンだ。旨みが凝縮されたチャーシューとの相性は抜群で、こちらも美味!
取材初日、3杯目のラーメンはチャーシュー麺(800円)! でも、不思議と胃がもたれない!
食後、藩欽星さんの跡を継いだ二代目の奥さん、カツヨさんに話を聞いて、喜多方ラーメンのルーツが見えてきた。
「藩欽星は中国浙江省の出身で、明治の終わり頃に同郷の王貞治さんのお父さんと一緒に日本に渡って来たんです。藩欽星はひとりで喜多方の近くにあった加納鉱山で働く叔父さんを訪ねてきたんですが、会えなかった。そうこうしているうちに戦争のどさくさで中国に帰れなくなったので、いろんな仕事をしながら喜多方に居ついてしまったんです。その時に、故郷のラーメンを思い出して、見よう見まねで作って屋台で売り始めたそうです。屋台をやったのは1年ぐらいで、源来軒を創業したのは大正13年(1924年)です」
もし、藩欽星さんが叔父さんに会えていたら? 中国に帰ることができていたら? 恐らく喜多方ラーメンは生まれなかった。運命のいたずらで、喜多方にとどまって故郷のラーメンを作り始めた藩欽星さんのもとで働いた弟子たちが独立することで、喜多方に支那そばが根付いていったのである。
それにしても、まさか喜多方ラーメンのルーツに王貞治さんのお父さんが登場するとは! 店には、王さんがホームランの世界記録を更新した時の記念パネルが色あせることなく飾られているが、これも藩欽星さんが王さんの父からもらったそうだ。
王さんのパネルは、王さんの父が具合を悪くしたときに藩欽星さんがお見舞いに行き、その際にもらったそう
喜多方ラーメン、奥が深すぎる!
僕はお腹も胸もいっぱいになって、宿に戻った。想像以上に面白い話が聞くことができて、満足していた。ただ、ひとつだけ気になっていたのは、ホテルから源来軒への行き帰りにも誰にも会わなかったことだ。
外は凍えるほど寒い。早朝ともなれば、もっと冷えるだろう。食堂なまえにも、源来軒にも、お客さんは2、3組いたが、町の雰囲気としては明らかに冬眠中。完全なるオフシーズンで、観光客の姿も見当たらない。
僕は不安だった。喜多方の人たちは、キンキンに冷えた冬の朝、わざわざ早起きしてラーメンを食べに行くのか? 朝ラーの取材に来ているのに、開店時間にラーメンを食べているのが自分一人だったらどうしよう?
必死にママチャリをこいだおかげで、7時の開店10分前に坂内食堂に着いた。が、ラーメン店が軒を連ねる喜多方の中でも知らぬ人のいない人気店なのに、店の外には僕しかない。心細さと「企画倒れ」の恐怖で、心底冷える。足踏みしながら待つこと7、8分、間もなく開店、これまでか……と思ったら、ついに僕の後ろに男性が並んだ! 心の中でガッツポーズをして、思わず話しかけるとラーメン好きの旅行者だった。
青春18きっぷで愛知県から北海道を目指しているという方で、前日に喜多方に入り、昼と夜にラーメンを食べ、さらに満を持して朝ラーに臨んだそうだ。喜多方ラーメン、そして朝ラーが立派な観光資源になっていることを実感した。
話をしているうちに開店。昭和33年(1958年)にオープンした坂内食堂の2代目、坂内章一さんに声をかけて挨拶をしていると、すっ、すっとお客さんが入ってくる! 作業着やスーツを着ていたりして、間違いなく地元の人だ。僕はとりあえず支那そばを注文し、スーツ姿の中年男性に話を聞いた。
「私は隣町に住んでいて、職場が喜多方です。月に1、2回、出勤前にラーメンを食べますね。今朝は、昨晩飲み会があったから、ラーメンを食べたくなってね。サッパリしてるからもたれないし、温まりますよ」
僕はいきなりビンゴを引き当てたような気分だった。この男性の言葉を聞けば、朝ラーが日常に馴染んでいることがわかるだろう。
僕がこの男性に取材している間にも、どんどんお客さんが入ってくる。結局、僕が注文した支那そばが出てくる前に、9人のお客さんが席についていた。まだ7時を少し回ったくらいの時間に、店がにぎわい始めている。これが朝ラーか!
「喜多方はラーメン屋の密度が日本一。ぜひ食べ歩きしてほしい」と語る2代目の坂内章一さん
坂内食堂の支那そばも透き通るような琥珀色のスープだけど、坂内社長に「うちは豚骨の塩ベース」と聞いて、豚骨といえば博多風の白濁したスープしか思い浮かばない僕は驚いた。坂内食堂ではこの豚骨塩ベースのスープにしょうゆも加えていて、あっさりしつつも独特のコクがある。この繊細なスープが「今でも手もみしてもらっている」というこだわりの多加水縮れ麺、口の中でトロける自家製チャーシューと黄金の三角形を形成し、何度でも食べたくなる癖になる味を生み出しているわけだ。
ラーメンを食べて気づいたのは、全く胃にもたれないこと。寒い日の朝に滋味深いスープを飲んだ時とさほど変わらない気分。この味なら、朝に食べたくなるのもわかる! と初めての朝ラーをひとしきり満喫した後で、坂内さんに朝ラーについて尋ねると、坂内食堂が朝の営業を始めた意外な理由が明らかになった。
「私は2代目ですが、小さい頃から朝ラーの習慣はあったから、もう40、50年は経ちますね。最初の頃は、普通に11時ぐらいから開店していたそうですが、私たちが学校に入って、お弁当を作ってもらうようになってから、朝も営業するようになったそうです。というのも、店と住まいが一緒だったので、朝、厨房でお弁当を作っていると、店の前を通るお客さんが『あれ、もうやってるの?』と声をかけてくる。そういうお客さんの要望もあって、朝早く開店するようになったんです。そうしたら夜行列車で早朝に喜多方に到着した方、工場の夜勤明けの方、明け方からひと仕事してひと段落した農家の方、出勤前のサラリーマン、学生、いろいろな方が来るようになりました」
なんと、お客さんの勘違いから始まった朝の営業は、ふたを開けてみると意外にニーズが高かった。そこから、今や超人気の坂内食堂の朝ラーがスタートしたのである。ちなみに、ゴールデンウィークやお盆の時期は、朝7時前から店の前にずらーーーーっとお客さんが並び、2、3時間待つこともあるそうで(!)、何も考えずにオフシーズンを選んだ僕はラッキー麺、いやラッキーメンだったのである。
全国にチェーン展開する坂内食堂だが、本店は外観も店内も古き良きラーメン屋の趣
続いて訪問したまこと食堂は、坂内食堂と人気を二部する喜多方の名店。やはり繁忙期には7時30分の開店前からとんでもない行列ができると聞いたけど、やはりこの日は穏やかな客の入りで、7、8人が静かに朝ラーを楽しんでいた。
僕は坂内食堂で支那そばを完食していたけど、なにせ淡麗な味わいでさっぱりしているから、胃がもたれない。厨房に立っていた三代目の佐藤一彌さんに挨拶すると、すぐに中華そばを注文した。
「ばあさまが作ったそばの味」(佐藤氏)をそのまま受け継ぐ中華そば(650円)
豚骨と煮干しがベースになっているまこと食堂の中華そばは、食堂なまえや坂内食堂よりも風味が濃厚だ。でも朝ラー客に支持されているだけあって口に残るような脂っこさはなく、豚骨と煮干しが仲良くマリアージュしていて、スープを口に含むと舌が喜ぶ。コシのある縮れ麺も歯ごたえ十分で、普段、濃い口のラーメンが好きな人はもちろん、コッテリはちょっと……という薄味派にとっても大満足の味だろう。犬と一緒に車で旅をしているという見たところ三十代の女性が、しっかりとスープまで完飲して帰ったのが何よりの証拠だ。
当然、僕も完食して朝ラーの取材に戻る。
佐藤さんによると、佐藤さんの祖母がまこと食堂をオープンしたのは昭和22年(1947年)。下宿人から聞いた一言がきっかけだった。
「ばあさまは、うどん屋、下宿屋、雀荘、いろいろなことをしていたんですが、ある日、東京に行って帰ってきた下宿人が『東京では支那そばっていうものが流行っているから挑戦してみたら?』と勧めたんです。それで、この店を始めたそうです」
佐藤さんの記憶によれば、やはり物心ついた時から早朝営業をしていたそうだ。地元の人が朝食にラーメンを食べる習慣は、その当時から変わっていないという。
暖簾には感じで「満古登(まこと)」と記されている。
店内は広く、約100席ある
「大きな工場があって、夜勤明けの帰り道に寄ってくれるお客さんがいるんですよね。あとは、ガソリンスタンドとか朝早い時間帯に勤めている方もいます。あと、このへんはソフトボールが盛んで、雪が解けて温かくなると朝の5時、6時から練習とか試合をして、ユニフォームのままうちでそばを食べてから仕事に行くという方もいます。いろいろなパターンがありますね」
想像してみた。
祖国に帰り損ねた藩欽星さんが、屋台で売り始めた支那そば。その味を受け継いだ弟子たちが喜多方で店を開き、喜多方市民の間にラーメン自体が根付いていった。
そうして喜多方市内や郊外に工場が増え始めた1960年代、坂内食堂で起きたようなちょっとした出来事がきっかけで、早朝営業が始まったのだ。恐らく、当時はまだ自宅も職場も暖房設備が整っていなかっただろう。雪深く、寒さも厳しい喜多方で、仕事帰り、あるいは仕事に行く前に食べる優しい味のラーメン。ホッと一息つきたくなるような一杯だったに違いない。その温もりを求める市民が早朝から足しげく店に通うことでいつしか朝食にラーメンを食べることが習慣となり、今に受け継がれているのだ。
東京に帰って数日も経つと、なんだか僕ももう一度、朝ラーしたくなってきた。
ライター 川内イオ
1979年生まれ、千葉県出身。広告代理店勤務を経て2003年よりフリーライターに。
スポーツノンフィクション誌の企画で2006年1月より5ヵ月間、豪州、中南米、欧州の9カ国を周り、世界のサッカーシーンをレポート。
ドイツW杯取材を経て、2006年9月にバルセロナに移住した。移住後はスペインサッカーを中心に取材し各種媒体に寄稿。
2010年夏に完全帰国し、デジタルサッカー誌編集部、ビジネス誌編集部を経て、現在フリーランスのエディター&ライターとして、スポーツ、旅、ビジネスの分野で幅広く活動中。
著書に『サッカー馬鹿、海を渡る~リーガエスパニョーラで働く日本人』(水曜社)。