翌日はいよいよ、桶職人の正宏さんに会いに行く日だった。
正宏さんの工房は、フィールド・ノートから、徒歩20分ほど山を登った先にある。
充幸さんと陽子さんが、道すがら山の植物を見せると言って、私をそこまで案内してくれた。
これはウバユリ、あれはヤドリギ、あっこれはグミの実だ、食べてみて!!
なんてにぎやかにおしゃべりをしながら、ゆっくりと歩く。
私は大抵、2人に「これ見て!」と言われるまで、その植物の存在に気付くことができなかった。
他の木々や草花に紛れて、見分けがつかないのだ。
小さな草や、落ち葉に至るまで見逃さない2人は、まるで植物博士のようだった。
いくつかの建物を過ぎた後、うっすらと雪の残る小屋が見えてきた。
「あそこが、弟の工房です」
近づくと、中で作業をする正宏さんが見える。
ちらりと視線がこちらを向いたので、訪問に気付いてくれたようだ。
ドアを開けると、「どうぞ、上がってくださーい」という声がする。
私は、充幸さん達と一旦お別れをし、おずおずと工房の中に入った。
そこは、すべてが「木」で満たされていた。
建物自体はもちろん、割りたての木片、少し形が整えられたもの、すでに桶の形になっているもの、何だかよくわからないもの……
視界だけではない。
いろんな種類の木の匂いもした。
身体いっぱいにそれを吸い込み、なぜだか懐かしい気持ちになる。
カチ、コチ、カチ、コチ……
時計の針の音が響く部屋で、正宏さんはひとり、作業をしていた。
正宏さんは、兄の充幸さんと似ていなくはないが、そっくりというほどでもなかった。
似ていたのは、持っているものを惜しみなく与える精神と、自然と暮らす生活を愛する心、それから、軽快な関西弁だ。
「座りやすいとこに座ってください。寒いんで、暖房のそばでも」
窓の外に薄く積もった雪を見ながら、私はありがたくストーブのそばに腰かけることにした。
正宏さんが桶作りを始めたのは、28歳の時だという。
なんと、現在の私と同い年だ。
22歳のときからずっと、アルバイトをしてお金を貯めては旅に出る、という生活をしていた。
兄の充幸さんがタイマグラに宿を開いたのは、その頃のこと。
以来、正宏さんは、この場所へちょこちょこと遊びにくるようになる。
もともと田舎暮らしに興味のあった彼は、何か手に職をつけたいとぼんやり考えていた。
そんなときに出会ったのが、フィールド・ノートの桶風呂だ。
昨日私が入った正宏さん作の風呂桶は、実は2代目。
その前に、別の職人さんが作った、1代目があったのである。
「これだ!」と感じた正宏さんは、さっそく桶作りの師匠探しを開始。
2~3年かけて全国の桶屋を訪ね歩いた。
しかしどこも
「続けるのは大変な仕事だから、やめておいたほうがいい」
とアドバイスをくれるばかりで、なかなか弟子にとってくれない。
そこで、1代目の桶風呂を作成した職人さんに、ダメもとで、「桶の作り方を教えてほしい」と頼んでみた。
すると、なんとあっさり承諾。
それもそのはず、その時師匠は、正宏さんが、桶作り“体験”をしにきたのだと勘違いしていたそうだ。
とにもかくにも、正宏さんは師匠のもとについた。
しかし、ぴったりと張り付いて仕事を教えてもらう期間は、正味20日間ほどしかなかったという。
「その時は、ちっちゃい手桶を一緒に作ったんです。それからは、自分で作っては師匠の元へ持って行き、添削指導をうけました」
私は、添削指導だけで桶職人になれるものなのかと思わず仰天したが、もちろんそれだけではなかったのだった。
弟子入りした翌年、正宏さんは、結婚を機にこの地へと越してきた。
その際、自宅の風呂桶の制作を親方に頼んだのだ。
その機会を利用し、製作過程をいちから見せてもらって一緒に作った。
また、正宏さんは、自分用の道具を持っていなかった。
桶道具は、それを作る鍛冶屋がもうほとんどいないため、新品が手に入らない。
だから、中古のものを買うか貰うかするしかなかった。しかし親方はまだ現役で仕事をしているので、譲ってもらうこともできない。
さて、彼はどうしたかというと……過去のタウンページを開いた。
そこから、つぶれた桶屋を一軒一軒あたったのだ。
そうこうしているうちに、全国各地に桶屋の知り合いができた。
そうした交流の中で、様々な製法を見聞きしたり、仕事を手伝う機会ができたりして、正宏さんの技術は、おのずと熟練していったのだ。
工房の壁一面に、正宏さんの桶道具が並ぶ。
刃物がずらりと並ぶ様は、ちょっと迫力ものだ。
私はわがままを言って、少しだけ桶作りを体験させてもらうことにした。
桶作りはまず、木を割るところから始まる。
板状になったものは、「セン」という、ヌンチャクの鎖の部分が刃になったような道具を使って削っていく。
これで外面と内面のカーブがつく。
側面は、逐一、専用の定規を使って角度を測りながら削る。
定規のくぼみに板の側面がぴたりとはまれば、失敗しない。
私がやらせてもらったのは、数も形も整えられた板を、円状に並べて、タガという輪っかにはめる作業。
今、「簡単そうだな」と思ったそこのあなた。ひとこと言わせていただく。
……甘い!!!!!!!
まぁ、かくいう私も、「どんだけ砂糖入れたの!?」とツッこみたくなる外国製のお菓子のように、ベリーベリー・スウィートだったわけなのだが。
「多分、結構できちゃうと思いますよ!」と豪語したわけだが。
数分後。
板を立てちゃあ崩し、また崩し、最後の一枚のところで倒壊し、輪っかをはめるところで失敗し……エトセトラ。ケセラセラ。
自分の不器用さに、私はただただ笑うしかなかった。
「なかなか大変でしょう?」と笑いながら、正宏さんは、私に代わってひょいとそれをやってのける。
動きをよく見ていると、足や指先すべてが、別々な役割を果たしているのが分かった。
あっというまに板が円になった。輪をずり上げ、完全に固定される。
「僕らの世界では『目で盗む』ってよくいうけど、結局どこまで見てるかなんですよね。口で伝えられることって、知れてるんですわ」
「手品習うのとちょっと似てますね」
と私が言うと、
「トリックはないんやけどね」
と正宏さんは笑った。
窓の外には猫が一匹。
正宏さんの愛猫、しぃーちゃんだ。
雪の上を、我が物顔で歩いている。
「よく、作業を見学にきてね、『ほんとはサラリーマンじゃなくて、こんなのやりたかったんですよ』とか言う人おるけど、やればいいと思うんですよ。
僕の場合もそうだけど、桶屋なりたい言うたって、それはあくまでもイメージでしょ。
やってたわけじゃないし。ましてや、初めて見るような作業ばっかりだったからね。
でもやっぱり、実際やってみてから答えださないと、好きか嫌いかなんてちゃんとわかんない。
かじってみて、『やっぱりだめやった』ってなったら、やめればいいんですよ」
実際、正宏さんも、農業を志したときがあったという。
でも、いざやってみたら自分には向いてないように感じて、方向転換を決めた。
とはいえ、なかなか始めたことを取り下げるのには勇気がいる。
それが仕事ともなればなおさらだ。
石橋を叩いて叩いて、叩き壊す……性格を、ちょっとずつ矯正中の私には、そのことがよく分かる。
「やめたからって、ほんなら何になんの、ってねぇ」と正宏さんはからりと笑う。
「そう考えるから、こういうこと出来ない人が多いと思うよ。こんなことしたら食べていけへんかな、とか、頭の中で勝手に悪いこと考えて最初から自分の選択肢捨てていってるんですよ。ほんとに心配するべきなんは、食べていけるかよりも、自分がそれを続けれるんか。最終的には、『好きかどうか』いうんをはっきりさせないと」
何のツテもないまま桶作りの世界に飛び込んで20年、この道だけで食べてきた正宏さんの言葉には、ずしりと重みがあった。
多くの人は、何かにチャレンジするとき、失敗したくないがゆえに足踏みをする。
よく考え、対策を練り、スタートのための準備にいそしむ。
でも、そうやってみんなが足踏みしているうちに、自分の「好き」を信じて走り出してしまった人は、転んだり迷ったりしながらぐんぐん学習して、周りが走りだした頃にはもう、追いつけないほど遠くに行ってしまっているものなのかもしれない。
ボーン、ボーン、ボーン……
柱時計の鐘の音が、時刻が3時であることを告げていた。
充幸さんに車で送ってもらい、タイマグラから最も近い電車の駅「陸中川井」駅に到着した。
手には、ぱんぱんになってはち切れそうなビニール袋。
ヒバの木屑が入っている。
工房で、カンナで削った後の木屑が集められた袋を発見した私は、そのあまりの良い香りに、欲しいと言ってねだったのだ。
正宏さんは、二つ返事で私の申し入れを承諾すると、45リットルのゴミ袋に入った木屑を出してきてくれた。
さすがにそれを持って新幹線に乗ったら不審者と間違われてしまうかもしれないので、持ち帰るのは20リットルほどにとどめさせていただいた(それでも多いって?)。
某鳥の卵よりも、カスタードクリームの入ったお月さまよりも、なにより一番嬉しい、自分へのおみやげだった。
お風呂に入れたり、枕元に置いたり、鞄に入れたり……想像しただけで癒されそうだ。
ホームに滑り込んできた電車に、ドアの開閉ボタンを押して乗り込む。
「また、カタクリの花が咲く頃にでも、遊びに来てくださいね」
「はい、絶対にまた来ます!」
遠ざかる充幸さんの姿を見届けて、久しぶりに携帯の電源を入れる。
電波が繋がった瞬間、なんだか少しがっかりしたのは、気のせいか、否か。
ライター 坂口直
1985年、東京都生まれ。
大学卒業後、海外特許取得に係る手続きの代理業に5年間従事。
初めてアジア以外の海外を訪問した際、異文化の面白さを感じ、まだ見ぬ人や文化に出会いたいという思いが芽生えるようになる。
その思いを遂げるべく、2013年春よりフリーのライターとして活動開始。現在はWeb媒体を中心に活動を広げている。