鳥取市街地から車で30分、鷲峰山を背にした山間の静かな町、それが鳥取市鹿野町だ。鹿野町は戦国武将・亀井茲矩が作り上げた城下町で、今も当時の面影が残る家屋敷が点在する。400年前から伝わる水路や江戸末期に作られた京風千本格子の町家など、古い町並みを歩いていると、まるでタイムスリップしたかのような気分になってしまう。
そんな美しい城下町に、全国でも珍しい劇団があるのをご存知だろうか? 廃校舎を利用した劇場と稽古場を持ち、スタッフは町内や、その近隣で生活し、演劇に専従している。それが「鳥の劇場」だ。「鳥の劇場」とは、劇団名であるとともに、「場」の名前でもあるという。
ちなみに、鳥取県の総人口は約57万人(平成27年3月現在)。これは日本で最も少ない数字だ。つまり過疎化が進んでいるということで、鹿野町も例外ではない。このように人口が少ない地域で、スタッフが専従するという鳥の劇場はどのように成り立っているのだろうか?
実は私はかなり以前から、「鳥の劇場」を聞き知っていた。最初にその名を聞いたのは、確か2008年頃だっただろうか。
―鳥取に「鳥の劇場」という、とても面白い劇団があるんだよ―
写真や美術業界の知り合いから、何度か聞いていた、その名前。しかし私のホームタウン・水戸からは、いかんせん鳥取は遠い。単に遠いというだけではなく、西日本の他の地域に比べても、山陰、特に鳥取はアクセスしづらい、という印象もある。なかなか確かめに行くことはできないでいた。
しかしである。2014年の夏、鳥取に3週間撮影に行って写真集を作るという、非常にラッキーな仕事が巡ってきた。しかもレンタカー付きで! これは鳥の劇場にも撮影に行けるかもしれない。そうして私は初めて「鳥の劇場」へと行き、ゲネ(リハーサルのこと)を見せてもらうことができたのである。
さて季節は巡り、2015年は明けて春となった。9ヶ月ぶりの鳥取に、私はまたやってきていた。「鳥の劇場」の三月末の公演のための稽古を見学させてもらいながら、劇団スタッフたちへインタビューをすることになったのだ。
最寄りの浜村駅まで、制作の中本絵美さんが迎えにきてくれた。劇団の中でも若い世代のメンバーの一人である。鳥取出身である中本さんは大学卒業後、劇場内のカフェで3年ほど働いたのち、2011年に「鳥の劇場」へと正式に「就職」したのだという。
そもそも「鳥の劇場」とは、演出家であり、現在は鳥の劇場芸術監督である中島諒人(なかしままこと)さんが2006年に旗揚げした劇団である。東京で演劇活動をしていた中島さんと後の立ち上げメンバーたちが、中島さんの故郷、鳥取へとUターン、Iターンし、鹿野町の廃校になった幼稚園と小学校をリノベーションして劇場を作り上げるところから劇団の活動はスタートした。
使われなくなった小学校と幼稚園をリノベーションして作られた「鳥の劇場」。もと体育館だった建物の内部には、本格的な劇場空間が広がっている。
現在は専属スタッフ16名を抱えるNPO法人として劇場を拠点に創作、上演している。また地域の文化拠点としての場づくり、教育普及活動にも力を注いでいる。鳥の劇場の公演は現代社会へ向けたメッセージ性の高いものから、子ども向けなども含めて年間4本、そのほか様々なイベントもあり、劇場に足を運ぶ人は年間約9,000人に及ぶ。
同時に地域を越えた国際的な活動も展開。年一度、週末を3回使って、劇場と街なかを使って開催する「鳥の演劇祭」では、世界中の優れた芸術家や演劇集団を招聘しており、地域を問わず多くの観客で賑わう。また劇場がよそへと公演に出かけていくこともある。
さらには2014年から鳥取県を挙げて始まったアートプロジェクト「鳥取藝住祭」を牽引する中心的な団体として、「鳥の劇場」は今や鳥取の、いや中国地方の演劇、アート界になくてはならない存在となっている。
中本さんはそんな「鳥の劇場」のスタッフの中では、いわゆる第二世代にあたる。初めはおそらく様々な苦労もあったであろう立ち上げ期はすでに終わり、多くの観客が訪れる立派な劇場があり、国際的な活動をする劇団。それが中本さんの就職先だったのだ。 「劇団の立ち上げを見ていないですからね、そういう実感は薄いかもしれません」
今の日本は大都市を除いて、どこの地方都市も経済は疲弊している。大都市にいたとしても演劇や美術で食べてゆくなんてことは、夢のまた夢だ。地方にいながら演劇を生業にできるなんて、アートを志す若者から見ると、とても恵まれていることではないだろうか、と問うと中本さんは頷いた。
立ち上げメンバーの多くは鳥取とは縁もゆかりもない人も多かったが、いまや鳥の劇場には、役者も含め、中本さんと同じく鳥取出身の若いスタッフも入るようになってきているのだという。地方再生のロールモデルのような話だ。
中本さんには、ここならではの仕事もたくさんある。例えばシンポジウムの企画立案だ。鹿野はアクセスが悪く、また制作の仕事も忙しいので、なかなか外へリサーチ活動に出づらい。ではいけない代りにここに呼べばいいじゃない! ということで、自分たちが呼んでみたい人のシンポジウムを企画するのだという。
また鳥取では人口が少ない分、会ってみたいと思う人がいれば、自分ががんばれば会えてしまう、ということがあるのだそうだ。都会だったらそれを煩わしく思う人もいるだろう。でも会いたい人に会える、やりたい仕事をちょうどいい距離感で実現していくことができる。それは人口が少ないことを逆手に取った、実にいい発想だなあ、と思う。
そんなふうに、地方の若者が自分の出身地で輝いて働ける場所へとなりつつある「鳥の劇場」。それが形作られるまでに、一体どんな歴史があったのだろうか?
お昼過ぎ、芸術監督の中島諒人さんがスーツ姿で劇場へと姿を現した。久々にお会いするが、細身の中島さんはいつもオシャレで、スーツ姿ももちろんお似合いだ。しかしスーツとは、なんとなく私の思う演劇人のイメージとちょっと違う。いわゆる演劇の稽古場とはかけ離れているファッションだ……と思うのは私だけではないだろう。
聞けば中島さんは、地元の学校の卒業式に出席してきたのだという。鳥の劇場は近隣の学校へワークショップを行うなど、アウトリーチ事業も積極的に行っている。これまでに行った学校でワークショップを受けた子どもたちの数は、のべ1万人を超えるという。地域密着型劇団の芸術監督ならでは……と微笑ましくなった。
スーツから普段着へと着替えた中島さんは、自主練習をする役者たちが待つ劇場へとさっそうと向かっていった。私もカメラを持って慌てて追いかけた。
鳥の劇場の「劇場」は、本当に立派だ。小学校の体育館を改装し、緞帳などの舞台機構、音響設備、照明が組まれ、最大196席の客席を擁するコンパクトながらも本格的な劇場だ。これにプラスして、小さな舞台としても、また劇場前の客だまりになるホワイエとしても使える「スタジオ」がある。
外組みはもともとの小学校の形が残っているから、外から眺めただけでは分かりづらいが、中へと入ってみるとそのギャップに誰しもが驚くだろう。そしてこれは全て劇団メンバーの手で工夫しながら作り替えてきたというのだから、さらに驚きだ。
さて劇場では月末に迫った公演「戦争で死ねなかったお父さんのために」の稽古が行われていた。つかこうへいの初期戯曲でもあるこの作品を公演の演目に採り上げたのは、もちろん理由がある。戦後70年にあたる今年は、戦争をテーマにした作品をいくつか上演するのだという。
通し稽古を見守る中島さん。舞台前列右の役者は村上里美さん。
演出をつけていく中島さんは普段の物腰柔らかな雰囲気からは想像もつかないほど、厳しい。大きな声をはりあげて演技を遮り、役者たちに厳しい注文を付けていく。ああ、やっぱりスーツは仮の姿だったか……、と私はドキドキしながら思った。
それに応える役者の演技も、毎回ちょっとずつ変わっていく。演出家の注文に応えつつ、新たな可能性を探って自分たちの演技を試していく、まさに稽古で舞台が少しずつ生まれていく様子を目の当たりにしながら、みんな本当に演劇のプロなんだなあ、と当たり前の事を今さらのように感じ入っていた。
「最初は劇団の仕事を勘違いしていたんですよ」
役者の一人、葛岡由衣さんはそう言う。
葛岡さんは2006年に高知から移住して鳥の劇場にやってきた三人のメンバーの一人だ。葛岡さんは中島さんが演出した、高知県立美術館で地元の役者を起用した公演を見に行き、その芝居の面白さに触れ、結局、鳥取へと移住して、「鳥の劇場」へ参加することになったのだ。学生の頃は演劇をしていた葛岡さんだが、その頃は高知で仕事をしながら、演劇は趣味として、ほとんどやめていた状態だった。その仕事が自分には合ってないとも感じていた葛岡さんにとって、劇団専属の役者となる、ということはとても嬉しい人生の転機だったに違いない。
「芝居することだけが、仕事だと思っていたんですけど」
え、そうではないのだろうか? たしか鳥の劇場は、日本でも数少ないスタッフ全てが「演劇に専従する」地方劇団のはずだけど……。
「中島さんにいわれた仕事とは、<場を作る>ことだったんですよ」
それは演劇を通して積極的に地域の中に飛び込んでいく、あるいは行政の人たちと関わっていくということに他ならなかった。日本で最も人口が少ない県、すなわちある意味では田舎中の田舎である鳥取県で芝居をするということ。それはまず、演劇を知らない人たちとどう関わっていくか、ということを考えることから始まったのだ。「最初の1~2年はよく理解できていなかったですけどね」と葛岡さんはちょっと微笑んだ。
稽古中の役者たち。右は葛岡由衣さん、左は鳥取出身の若手役者、中垣直久さん。
鳥の劇場は何度もいうように、劇場を持ち、スタッフが演劇に専従できる日本でも数少ない劇団だ。しかしそれは公演のチケットの売上げで全てがペイできる劇団、ということではない。むしろ日本のどこでも、そして世界中でも、そんなことを実現するのはとても難しいだろう。そこで鳥の劇団では公的な助成を得て、NPO法人として演劇活動を展開している。報酬制のNPO職員としてのスタッフの生活はむろんラクとはいえない、だが全員がフルタイムで演劇に従事できる生活が、ここには確かにある。
ここで芸術監督の中島さんの話に戻ろう。中島さんは鳥の劇場をスタートする前は東京大学で、そして卒業後もアルバイトをしながら都内で演劇を続けていた。2003年に利賀演出家コンクールで最優秀演出家賞を受賞したことがきっかけで、一年半の契約で静岡県舞台芸術センターにて、初めてフルタイムで演劇の仕事だけの生活をおくった。契約が切れたあと、中島さんは考えた。さて、この生活を続けていくには一体どうすればいいのだろうか。
「鳥の劇場」芸術監督の中島諒人さん。ふだんは優しい笑顔だが…。
パートタイムではない、新しい演劇の道。それを実践するのは、もはや東京ではなく、地方しかない。どうせ地方に行くのなら、最も人口の少ない自分の出身地、鳥取に帰ろう。それは賭けでもあったが、一番成功しやすいチャンスでもあったのだと、今にしては言えるのではないだろうか。2000年代に入り経済がすっかり疲弊し、何もかもが難しくなりつつある地方では、若いUターン・Iターン世代は待ちこがれられる存在であるからだ。故郷には「いろんな人を応援していこう」という空気があった、と中島さんは語る。それは「演劇」という、一見、地方では受け入れがたいような存在も例外ではなかった。
中島さんは「鳥の劇場」が地域社会において公的なサポートを得つつ、どうやってギブアンドテイクの関係に持っていくか、ということを真剣に考え始める。立ちゆかなくなりつつある私たちの社会を見つめ直すために、演劇にできること。それは「演劇」が社会に、それも地方の普通の人たちの間で、なくてはならない存在へとしていくことだった。一般の人たちの間で演劇の可能性を分かち合い、発展させていける場を作る、それこそが葛岡さんたち役者がやがて体験する「場を作る」という仕事であった。
例えば鳥の劇場は年間の基本プログラムを、「創る」「招く」「いっしょにやる」「試みる」「考える」の五つの柱に分けて構成している。「いっしょにやる」では、一般の人との共同作業が主だ。2014年の「鳥の演劇祭」では、障害を持つ人たちの劇団「じゆう劇団」をプロデュースし、葛岡さんたち役者も参加するなどしている。そこではどちらかが「教える」あるいは「教わる」という関係性はない。一緒に演劇をする中で、障害を持つ人たちの表現の挑戦によってプロの役者もかなわない、というような瞬間がたち現れるのだという。鳥の劇場も、一般の人も、まさに「演劇の可能性」を体感する場となっているのである。
三月の公演「戦争で死ねなかったお父さんのために」のお父さん役の高橋等さん。ダイナミックな動きと目の演技力に圧倒される。
最も主たる活動である上演プログラム「創る」では、中島さんはいわゆる「名作」「古典」を中心に、演目をセレクトしている。それは主に地元の人、それも鳥の劇場を一番応援してくれる世代である働き盛りの40~50代の人に楽しんでもらいたいという思いからだった。現在は子どもと一緒に楽しめるような演目も増やして、30 代の来場者も増えているという。こうして鳥の劇場の「場づくり」は少しずつ、だが着実に鹿野の、そして鳥取の人たちに受け入れられていったのである。
そしてこの春、鳥取には一つのニュースが駆け巡った。それは鳥取市が「鳥の劇場」の耐震改修工事の実施を決定した、ということ。財源の半額は県の補助による。これは行政が鳥の劇場を地域資源として位置付け、継続的に支えると表明した事に他ならない。これは地元の新聞に載るニュースとなり、劇団スタッフたちは、新聞を見た町の人たちに「よかったねえ」と声をかけられる日々を、しばらく送ったのであった。
このことからも「鳥の劇場」がいかに鳥取の人々にとって、アートの中心地として欠かせない場所となっているかが、分かるのではないだろうか。
作曲家の武中淳彦さんも、高知からやってきたメンバーの一人だ。ウィーンの音大で学んだ武中さんは、演奏、作曲を行う座付きの音楽家として劇団スタッフの中でも異色の存在だ。そもそも座付きの音楽家がいるということも、日本の劇団では非常に珍しいことだと言えよう。鳥の劇場らしい、と言えばらしいけれども。
しかし武中さんが学んだヨーロッパでは、それは決して珍しいことではなかったのだという。ヨーロッパでは様々な音楽の形があり、日本に帰ってきて鳥の劇場で音楽家として活動するようになってから、その経験は活かされる。演劇の中の音楽は、相対的に演劇を良くするために、単にいい音楽であるだけではなく、芝居とのバランスが最も重要なのだという。ある時は音楽と言うよりも照明や衣装の存在に近いことさえもある、と武中さんは語る。
武中さんの仕事は公演の前の方が忙しいことが多い。例えば、まず読み合わせに参加し、新しく音楽を創る必要があるか、それとも選曲にするか、という判断から始まる。録音のときも多いが、芝居の中で生演奏をすることもある。そんな武中さんのポジションはおそらく、「鳥の劇場」の芝居のバランスが最もよく見える位置にあるのかもしれない。作曲家として、役者にアドバイスすることもあるという。それも座付きの音楽家ならではの仕事だ。
この日、武中さんは舞台稽古には参加せず、少し離れた部屋でバイオリンの演奏を練習していた。バイオリンの音が流れる廊下を歩きながら、私はまた次のインタビューをするべく事務所へと戻った。
通し稽古で衣装をチェックする、衣装係の安田茉耶さん。
事務所に入ると、スッピンでも一際目を引く女性がいた。
あっ、「鳥の劇場」看板女優の中川玲奈さんではないか! ゲネを見学させてもらった昨夏の公演「古事記」でも、神話の神々を何役もこなす玲奈さんの演技は、ゲネとは思えないような張りと美しさがあって、じっと見入ってしまう何かがあった。すでに玲奈さんのファンになりかけていた私は、さっそくインタビューを敢行することにした。
「女優である玲奈さんにとって、演劇をする上で、一番大事なことってなんですか」、という私の少々ありきたりな質問に、玲奈さんは言葉を選びながらこう答えた。 「うーん、いま、役者として、どうっていう感じじゃないんですよね。もう生かしてもらっているだけでもありがたいというか。むしろ他の人が輝くのを見たい、というか」 質問の意図をそらすようなその答えは、看板女優らしからぬ、ひと言でもあった。
玲奈さんは東京で中島さんたちと一緒に芝居をやってきて、縁もゆかりもない鳥取へとIターンしてきた創立メンバーの一人である。芝居が続けられるかどうかも定かではない鳥取へと飛び込む不安はなかったのだろうか、と私は思うのだが、玲奈さんはここに「可能性」を感じたのだという。お客さんの誰一人として、演劇マニアではなく、演劇と関係ない社会で生きている普通の人たち。まず、あんたたち、一体何もの? というところから始まる率直な意見の交流。ここの人たちに認めてもらうことをやっていきたい。それは東京で芝居をやっていた時には起らなかった、新しい感情だった。
実は玲奈さんは二年前に子どもを生んだばかり。旦那さんは劇団を支える役者の一人、齊藤頼陽さんだ。齊藤さんも東京からやってきた創立メンバーの一人である。子どもを生んでも芝居を続けられるなんて、東京で芝居をしていたら決してできなかったに違いない。そしてお芝居ができるならどこでも良かったのだ、と玲奈さんはいう。
他の人が輝くのを見たい、と言う看板女優もまた、世代や職業、障害を越えたアウトリーチ活動に今、力をいれている真っ最中だ。
稽古中の役者たち。左は中川玲奈さん。
全てのインタビューが終わり、また駅まで、制作の中本さんに送ってもらうことになった。鳥の劇場は、公演中、最寄り駅から車の送迎サービスや託児サービスなども行っている。ただお芝居を見るだけの場所じゃなくて、お客さんにとって劇場がゆっくり過ごせるスペースになってほしいから、と彼女は運転しながらいう。
いつかゲネではなく、鳥の演劇祭を見にくることを想像してみる。駅まで迎えにきてもらい劇場で公演を見る。見終わったら町へ出て、他の公演を一日かけてはしごする。劇場の中にも周りにも、美味しいコーヒーやパンがいただけるところがたくさんある。世界の演劇を見に来るお客さんで、この小さな美しい町はきっと賑わうことだろう。いいなあ、と思う。
「演劇って、人の幸せと関係ないものではないんですよね」と中島さんは言っていた。 時代がどう変わろうとも、人の体や言葉から何が出ているのか、互いがそれを読み取ることは、人々が生きていく中で重要なことだ。演劇を通じてそのテクニックを身につけること、それが演劇の可能性であり、演劇の専門家ができることなんだ、と。
だとしたら「鳥の劇場」の演劇は、ここに住む人たちをもっと幸せにしてくれるに違いない。演劇とは、人と人を、そして人と社会をつなぐコミュニケーションにほかならないのだから。
そんな事を考えながら、私は車を降りた。次に私がこの駅へ降りる時も、きっとお芝居を見に来る時だろう。
◎ ライター/写真家 松本美枝子(まつもとみえこ)
1974年茨城県生まれ。生と死、日常をテーマに写真と文章による作品を発表。
主な受賞に第15回「写真ひとつぼ展」入選、第6回「新風舎・平間至写真賞大賞」受賞。
主な展覧会に、2006年「クリテリオム68 松本美枝子」(水戸芸術館)、2009年「手で創る 森英恵と若いアーティストたち」(表参道ハナヱ・モリビル)、2010年「ヨコハマフォトフェスティバル」(横浜赤レンガ倉庫)、2013年「影像2013」(世田谷美術館市民ギャラリー)、2014年中房総国際芸術祭「いちはら×アートミックス」(千葉県)、「原点を、永遠に。」(東京都写真美術館)など。
最新刊に鳥取藝住祭2014公式写真集『船と船の間を歩く』(鳥取県)、その他主な書籍に写真詩集『生きる』(共著・谷川俊太郎、ナナロク社)、写真集『生あたたかい言葉で』(新風舎)がある。
パブリックコレクション:清里フォトアートミュージアム
作家ウェブサイト:www.miekomatsumoto.com