それから、大場師匠はガラリと変わった。自分の作品はもう作らず、つきっきりで沼倉さんを指導。そして、ますます怖くなった。
そこ違う! 考えろ! 頭使え!
馬鹿か、おまえ! もう帰れば!
数々の罵声に耐えながら、沼倉さんは釜神を彫り続けた。そして、ついに師匠も「よくやったなあ」と嬉しそうにすることが増えた。師匠が喜ぶと沼倉さんも嬉しくなり、ますます精が入る。
そんなある日のことだ。
「俺の後をついでくれないか」
と切り出された。高齢の師匠は、もう自分の余命が長くないことを分かっていたのかもしれない。
しかし、沼倉さんはサラリーマンである。養っている奥さんもいる。だから最初は、「じゃあ、仕事しながらやろうかなあ」と考えた。
しかし、なぜだろう。まるで突き動かされたように、仕事を辞めてしまったのだ。そして、今の場所を見つけ、工房を兼ねたお店を開いた。
奥さんの幸枝さんは、その時をこう振り返る。
「本当はねえ、趣味にして、定年退職してからやって欲しかった」
でもねえ、と晴れ晴れとした顔でこう続けた。
「『あんたの人生だから好きなようにやってみたら』って言ったの。そういう『やりたい』っていう熱は、その時しかないものでしょう。そういうものが見つからない人もいるもんねえ」
聞いている私は、じんと体が熱くなった。
その通りだ。
長い人生の中で、誰だってそういう自分の「熱」を感じる瞬間がある。でもそれは、時として花火みたいに一瞬で消えてしまう。五十にして、その花火に向かって走り出すのは簡単ではないはずだ。
「先のこと考えてもしょうがないしねえ。計画的にやってても、明日どうなるかわからないもんねえ」
そんな奥さんの言葉を、沼倉さんは静かに聞いていた。その何気ない言葉は、この地で聞くと妙な迫力をともなう。実際、沼倉さんの独立後に東日本大震災が起こり、大勢の人が亡くなった。その中には「いつかやりたいこと」を胸に抱えていた人もいただろう。
生活は一変。ノミを手に、木と向かい合う日々が続く。それは、何十年と生きた老木を、「神様」に生まれ変わらせる作業。どうやって彫るのか、どんな表情にするか。師匠は二年前にこの世を去り、もう教えてくれる人はいない。
「迷う時は、先生に言われたことを思い出してやってるよ。やっぱり先生はすごかったよねえ。違うよねえ」
そんな「工房釜神」にも、少しずつお客さんが現れるようになってきた。先のあや子さんもそんな一人だ。お客さんは今や日本全国からやってくる。
そういえば、こんなこともあった。
その人は、二時間くらいかけ、じっくりお店の中を見ていた。
「昔、自分の家に釜神様があって、なつかしくて。自分が生まれる前からあって、おじいさんからこれは『釜神様』というものだと聞きました」
男性の故郷は、福島県。福島には釜神文化がないはずだったが、どうやら家を建てた大工さんが宮城の人だったようだ。
その人の家は、飯舘村にあった。福島第一原発事故の後、全国的に名が知れるようになったあの場所である。
「原発の影響で今は家族が離散しました。今は、じいちゃん、ばあちゃん、自分、奥さん、子どもは3カ所にわかれて暮しています」
と男性は話し続けた。
「そんな時に、昔の家にこの釜神があったことを思い出して......。なつかしくなって来てしまいました。今はアパート暮しだから、そんなに大きいものは買えないけど」
と言いながら、かなり大きいものを選び、持ち帰ったそうだ。
人はなぜ釜神を側に置きたくなるのだろう。
一人だけでも、その持ち主の話を聞いてみたいと紹介してもらったのが、冒頭のあや子さんだった。
彼女は突然の来訪者の私に、丁寧に話をしてくれた。
「私ね、釜神様をみているとおじいさんを思い出すの。怖くて、優しいおじいさん」
穏やかな邸宅暮しに見えたあや子さんの人生も、また激動だった。
あや子さんが釜神を手に入れた時、彼女はまだ独身だった。当時は仙台で飲食店を営んでいたそうだ。一人暮しの狭い部屋の中で、彼女は釜神様を飾っていた。
「釜神様はお台所の神様でしょう。お台所は、家の中心、食べていくことの中心。家族が集う場所でもあるの。釜神様は、そういう場所を守る存在なのよ」
その後、東日本大震災に襲われ、長引く不況で飲食店は閉店。しかし縁あって今の旦那さんと結婚し、この大きな家に嫁いできたのだという。
コーヒーを飲みながらあや子さんは、釜神様の方を向いた。
「その間ね、釜神様は私と一緒にずっとついてきてくれたのよ。人にはいろんな時期や人生の流れってあるでしょう。時には、藁をもつかみたい時だってある。その時に何を信じるのかはその人次第なのよね」
そうだ。かつてから台所は、人間の営みそのものだった。穏やかな毎日に災いがふりかからぬよう、人は釜神様を側に置く。そして、離ればなれになった家族でも、逆に新たな家族を見つけた人でも、それぞれの人生に静かに寄り添っていく。
ところで、“神様”を作るってどんな気分ですか、と沼倉さんに聞いてみた。
「いやあ、特に感じるもんないねえ」
飾らない沼倉さんらしい答えだ。しかし、ふっと何かを思い出したようにあるエピソードを語り始めた。
一人のお客さんが、ここで手に入れた釜神様を神社に持ち込み、「魂入れ」を頼んだそうだ。「魂入れ」とは、お守りや神棚に祈祷をしてもらい、浄化してもらう儀式である。
ところが、釜神様を手にした神主さんは、「ああ、これはもう入ってるよ」と言ったそうだ。なんだかそれ自体が伝説みたいな話である。
「うん、まあ、よくわかかんねえけどさあ、俺の気持ちが入ってるのかなーって、ハハ」
と沼倉さんは笑った。何気ない話だったが、私は、なんだかドキドキした。「俺の気持ち」というけれど、一体それは何なのだろう。
そんな私の内心も知らずに、沼倉さんの話は続く。
「なんか釜神様を作りはじめてから、不思議なことが多いんだなあ。あのね、私はガンなんですよ」とやぶからぼうに言いだした。
去年の2月、急に足が腫れて、病院にいくと診断は悪性リンパ腫。手術はできない状態なので、放射線治療を行った。その後、抗がん剤治療を3週間に1度受けるために通院した。
「毎回、8万8千円かかるんだけど、こんな生活でカネないじゃないですか。でも治療の前になると売れるんですよ。3週間に1回、治療に必要な分だけ売れるの。あれは、不思議だったなあ」
幸枝さんも、抗がん剤治療の時は病院についていった。
「毎回すごく時間がかかるのね。会計も閉まる時間になっても終わらなくて、とにかく8時間くらいずっと隣で座ってた。病院の人たちには、この人よっぽどヒマなんだろうなーって思われてたでしょうねえ! この人の辛さは私にはわからないけど、一緒に座って、どんなもんだろうって想像してた」
そしてガン治療が一段落したいま、また沼倉さんは釜神を作り続ける。
いまは3人のお客さんが完成を待っているが、期限は設けていない。無理のない範囲で、自分のペースで作っている。それは、「たとえ明日世界が滅亡しようとも、私は今日リンゴの木を植える」と言ったマルティン・ルターをほうふつとさせた。
その後の結果はどうあれ、後世に何かを残そうとしているのだ。
一人の職人として。
インタビューが一段落すると、沼倉さんは工房でノミをふるい始めた。ざくざくと、荒削りに。でも確実に彫り進んでゆく。
「人は釜神様を、自分の心で見てるのよね」
幸枝さんは、ズラリと並ぶ釜神様を眺めながら最後にこう言った。「自分が寂しい時は、寂しく見えるし、悪いことした時は、怒られている感じがするの。でも、笑って見える時もある。だから、その時、その時の心で見てるのね」
「オマエ、いいこと言うなあ」と沼倉さんが顔を上げて感心した。いつも、こんな風に奥さんが言葉をうまく付け足してくれるそうだ。
「そうなの。私たちはさあ、0.5と0.5ずつで、二人で一人前なんだ」
と奥さんは微笑んだ。素敵な夫婦だなあと思った。
その時、ここで生まれた釜神様に何が入っているか、わかった気がした。
それは、愛のようなものなのではないだろうか。
物づくりに対する職人の無心の愛。師弟の厳しい愛。そして、幸枝さんの家族に寄り添う気持ち。そういう気持ちが入って、老木がいつしか神様になる―。
インタビューが終わると、二人は近所の天ぷら屋さんに連れて行ってくれた。沼倉さんは、大盛りの穴子天ぷらを頼み、私と幸枝さんはカキフライを食べた。
「そういえば、ここだったねえ」と幸枝さんは思い出したように行った。
そこは、二人が初めてデートにきた店なのだそうだ。
あ、そうだっけ、と沼倉さんは少し照れたように天ぷらを食べ続けた。
川内 有緒 ノンフィクション作家
日本大学芸術学部卒、ジョージタウン大学にて修士号を取得。
コンサルティング会社やシンクタンクに勤務し、中南米社会の研究にいそしむ。
その合間に南米やアジアの少数民族や辺境の地への旅の記録を、雑誌や機内誌に発表。
2004年からフランス・パリの国際機関に5年半勤務したあと、フリーランスに。現在は東京を拠点に、おもしろいモノや人を探して旅を続ける。
書籍、コラムやルポを書くかたわら、イベントの企画やアートスペース「山小屋」も運営。
著書に、パリで働く日本人の人生を追ったノンフィクション、『パリでメシを食う。』『バウルを探して〜地球の片隅に伝わる秘密の歌〜』(幻冬舎)がある。