「やっぱりけっこう月が明るいなあ」
「雲もけっこう多いですねえ」
私たちは、夜の河原にブルーシートを敷いて寝転がり、頭上にたなびく雲を眺めていた。場所は京都の鴨川の三角州。ここは東側から流れる高野川と、西側から流れる賀茂川の合流地点で、叡山電鉄が出発する出町柳駅の近くである。真夏の京都の夜にしては涼しく、花火や散歩をする人で賑わっていた。
昼間の鴨川三角州。京都でおすすめの星スポット。
時刻は夜9時。私たちは、ペルセウス座流星群を待っている。毎年8月半ばにやってくるこの流星群が見やすい時間帯は深夜から未明にかけてなので、長い夜になりそうだ。
「去年は、最高だったんですよ。すごく晴れて、月もなかったし、一時間に50個くらい(流星が)見られました。あれは、廣瀬さんがインドに行っていて(京都に)いなかったからかな!? 今年は廣瀬さんがいるから、どうかなあ」
そう冗談まじりに話すのは、「ラガード研究所」の店主・淡嶋健仁さんである。
「あー、そうですか」と隣で苦笑いするのは、廣瀬匠さん。別名「星のソムリエ」とも呼ばれる「星空案内人」である。二人はこれから毎年恒例となった「流星観察会」を開くところだ。夜11時くらいから朝方まで自由参加で行われる、ゆったりとした会である。
私が、二人に出会ったのは、「ラガード研究所」という所だった。そこは、『ガリバー旅行記』に出てくる何の役にも立たない研究に勤しむ研究所と同名だ。その通りに、この原稿を書いている今でもここをどう言い表せばいいのか、よく分からないでいる。
出町柳駅から歩くこと15分くらいの場所に、その研究所とやらはあるはずだった。地図は単純で、簡単に見つかるはずだ。
えっと、コンビニを過ぎて、数件目……?
しかし、それらしき場所は見つからない。
何度か行き来するうち、ようやくひとつのビルの壁に、全く目立たない看板を見つけた。しかも、2Fと書いてあるわりに、実際には3階にあるではないか。これじゃ、分かるわけがないよ、と文句を呟きならが、重たい木のドアをあけた。
ドアの前の壁に貼られていたのは、戦後あたりに学校で使われていたらしき古い「星座指導板」。
「おじゃまします」と中に進む。すると、薄暗い光に照らされたその空間は、理科の実験室のような様相である。戸棚や壁には、美しくも奇妙な品々がぎっしりとひしめく。緑色の光を放つ天球儀。さなぎや昆虫の標本。土器や鉱石。古い箱に、解読不能な文字が書かれた古紙… そして、何に使うのか分からない多数のものたち。
なんだろう、ここ?
夢の中で漂っているような、江戸川乱歩の世界にでも迷い込んだような。
どうぞ、と案内されたカウンターの前には大きな黒板があり、手書きの数式や図形が描きつけられていた。理解不能だが、「分からないところがいいんです」と店主の淡嶋さんは嬉しそうにと答えた。
「ジャスト4年前にここをオープンしました。もともと古道具が好きで、特に理科系のものを色々集めるうちに、天文系のものが好きになって。お店をオープンできたのは、ジャスト4年前!」
「店主」という言葉から想像していたよりも、ずっと若くて、気さくな雰囲気の人だ。
――ということは、ここは理科系の古道具屋さんなのだ。しかし、お店といっても、開店しているのは週に3日だけ。それも夜のみ。
「商売」より「こだわり」が優先で、アカデミックで昭和っぽいのが、いかにも京都らしい。こういうお店は、東京ではもう絶滅危惧種だ。
そんなことを考えていると、隣の廣瀬さんが、笑いながら突っ込んだ。
「さっきから『ジャスト4年』って強調するけど、オリンピックじゃないんだから。天文学にそんな周期ないよね。……あ、でも『うるう年』があるか!」
そんな二人のやりとりを見ていると、少しだけ現実世界に戻れた気がした。
淡嶋さんは、天文関係の古道具を集めるうちに宇宙についてもっと知りたくなり、「星のソムリエ」の廣瀬さんのトークイベントに出かけた。それが、二人の出会いだ。その後しばらくして淡嶋さんは、廣瀬さんにラガード研究所の主催で星に関するトークイベントを開きたいと申し出た。
そして、2012年に鴨川の三角州で、「星空教室」を開催。小さな黒板をひとつ置いて、天の川や夏の星座の話をした。その日も曇りだったが、たくさんの人が集まった。
最初の「星空教室」。星空の下に黒板だけというシンプルなしつらえ。
その後二人は、月に一度くらいのペースで月見会などの星や宇宙関係のイベントを開くようになっていく。
そうしていくうちに、星の先生の数も増え、ラガード研究所は星好きが集まる知る人ぞ知る拠点になっていった。時には、宇宙物理学の修士論文をここで展示したり、学者同士がここでディスカッションを行うことも(例の黒板の数式は、ディスカッションの跡!)。やっぱりここは、ただの古道具屋ではない。
と、ここまで書いてしまったが、今回の主役はラガード研究所ではない。「星空教室」の先生である廣瀬さんの方である。
だって、「星のソムリエ」である。そんな人々がいるなんて、さっぱり知らなかった。だから、どんな人がソムリエになるのだろう、という興味で京都までやってきた。そして、実際にソムリエに会ったら、星の見方、特に流星の探し方を教えてもらいたい、という小さな野望があった。
流星と聞くと、私は一つのことを思い出す。
まだ自分が小さい頃、よく母に「私が生まれた日はどんな日だったの」と質問するのが好きだった。すると母は「『ジャコビニ流星群』が来ていた時よ」と答えたのだ。
やったあ、星が降っている時に生まれたんだ、と幼い私は、いつも誇らしかった。
そう話すと、廣瀬さんはすかさず「じゃあ、10月8日生まれですか?」と聞いた。お見事!ほぼ当たりだ。私は10月9日の早朝生まれだ。
私は、実際にはジャコビニ流星群はおろか、なんの流星群もみたことがない。東京の市街地で生まれ育った私には、星はないに等しい存在だった。だから、今回わざわざこの日を選んで星のソムリエに会いにきたんだ。
一緒に、流星を見るために。
「星のソムリエは、ワインのソムリエと同じように、その場に応じておすすめの星について説明する人です。『星空案内人』とも呼ばれています」
ソムリエになるためには、「星空案内人®資格認定制度運営機構」が定める講座を受け、実技も含めた試験に合格する必要がある。星座の話、望遠鏡の使い方、文化や歴史、安全面への気の配り方などだ。資格取得後は、公開天文台や科学館、教室などで幅広く活躍する。廣瀬さんが、「星のソムリエ」の資格を取ったのは、今から四年前で、京都の大学院に通い始めたころだ。その後、月に数度くらいのペースで観測会などを開いて、星の話をしてきた。
それにしても、今も東京のド真ん中に住んでいる私にとっては、星を見るというのはどうにもハードルが高い。しかし、廣瀬さんは、「星を見始めるのは、決してハードルは高くない」と強調する。
「例えば、街中でも星は見えます。河原とか公園とか。京都ならば鴨川沿いはいいですよね」
「やっぱり、星がいっぱい見える所のほうが星座は探しやすいですか?」
「いや、最初は山奥や離島とかでは見えすぎて混乱するし、暗くて危険なので、まずは家の近くの公園とか河原とか、町の街灯が目に入らないところがいいです。3等星か4等星くらいまで見えると、星座の形ってわりと結べるんですね。そうすると山奥や離島に行っても星座が分かるようになる。京都ならば、叡山電鉄を登ったところもいいです。冬の洛北は空気が澄んでいて、特にたくさんの星が見えます。さらにステップアップして、わざわざ出かけるならば、例えば、京都・大原のあたりや、花背方面をお勧めします」
その言葉通り、ラガード研究所は2012年に叡山電鉄などと協力し合い、「星の列車 星空教室の課外授業・星巡りツアー“冬”」というイベントを開催したこともある。
廣瀬さんは、太陽系を3億分の1くらいに縮小し、「もし出町柳に太陽があったとしたら」と仮定した。そして、「太陽」=出町柳から、各惑星の軌道の距離に達するごとに、叡山電鉄の人が「ただいま金星を通過」などとアナウンスする。そんな風に走る列車の中で、廣瀬さんが冬の星座の解説などをした。
終点・八瀬比叡山口駅に着いた後は、実際に夜空を見上げた。そして、帰りは電車の中の電気を消し、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』を朗読するというロマンチックな一夜だ。
「それは、素敵な企画ですねえ!」
そうか、たいして街から離れなくても星は見られるのか!それは、けっこう新鮮な発見だった。
「そうなんです。たとえ軽い興味でもいいから、普段からぜひ気軽に星を見てもらいたいですね」と廣瀬さんは嬉しそうに頷いた。
といっても、彼は星のソムリエだけをしているわけではない。普段は大学の研究グループに所属し、インドの天文学史を研究している。それは、古代や中世の人々がどうやって星と関わり、星を見ていたのかという研究である。実際にインドにもちょくちょく足を運んで、フィールドワークも行う。
そんな一般的には馴染みが薄い研究をしている彼は、いったいどういう人生を歩んできたのだろうか。
廣瀬さんは、小学校の4年間をお父さんの仕事の都合で、アフリカのケニアやタンザニアで過ごした。
「電気事情の悪いアフリカでは、『明るい昼』と『真っ暗な夜』のコントラストがとてもはっきりしていました」
夜になると、そこに広がっていたのは、広大な漆黒だった。それは、時に目を背けたいほどの漆黒だったという。
中学生になった廣瀬さんは、静岡県の街の外れに住んでいた。市街地の学校まで数キロ離れていて、バス通学である。帰り道、たまにバス停を寝過ごしてしまうことがあった。そんな時は、バスの本数が少ないため、数キロの田舎道を歩いて帰った。道中は、星を眺めるくらいしかやることがなかった。
やがて理科の授業で星座について習うと、徐々に星座が見つけられるようになり、星を見るのも楽しくなってきた。そして、星の位置は時刻と季節でちゃんと決まっているのだと気づき、ハッとした。
「それは、暗黒だった『世界の半分』を発見したようでした」と振り返る。古代の人々が、星の運行に規則性を見出した時の喜びと驚きに、少し似ていたかもしれない。
ある日、両親に頼んで望遠鏡を買ってもらった。最初に見たかったのは、教科書で見た美しい星雲だった。大きくなったら天文学者になろう、そう考え始めたのはこの頃である。
しかし、望遠鏡の向こう側に見えた星雲には、ガッカリしてしまった。
「星雲の光って本来とても淡いもので、天体写真というのはシャッターを(時には何時間も)開きっぱなしにして、露出をかけることで明るく見せているものだったんです」
だから、教科書の写真と望遠鏡のスコープの向こう側はまるで違うのだと初めて知った。
しかし、星空を見ることは決してやめなかった。
高校生になった廣瀬少年は、部活の仲間としし座流星群を見に河原に出かけた。
わあ……。暗闇に突然閃光が出現する。そして、さっと動いては消え去っていく。普段は「静」である星空に劇的に「動」が出現した驚きに、胸がいっぱいになった。
東京の大学に進んだ廣瀬さんは、希望通り天文学を勉強し始め、天文学者への第一歩を歩み始めた。しかし、卒業する頃には、天文学者は実は自分に合わないかもしれない、と思うようになる。別に飽きてしまったわけではない。実は、その反対だったのだ。
「現代の天文学者って、星を見ないんですよ」
え、そうなんですか?
「やることは、観測じゃなくて計算なんです。世界中の天文台や観測衛星に『これを観測してほしい』とプロポーザルを出す。それが受理されたらデータをもらって解析する。中には、観測データも使わないで、シミュレーションでやってしまう人もいたりして…… 」
彼は、ラガード研究所の淡い光の中で、懐かしそうにしていた。
「自分は、星を見ること自体が好きだったんです。だから、もう少しその気持ちを追求してみようと思いました」
川内 有緒 ノンフィクション作家
日本大学芸術学部卒、ジョージタウン大学にて修士号を取得。
コンサルティング会社やシンクタンクに勤務し、中南米社会の研究にいそしむ。
その合間に南米やアジアの少数民族や辺境の地への旅の記録を、雑誌や機内誌に発表。
2004年からフランス・パリの国際機関に5年半勤務したあと、フリーランスに。現在は東京を拠点に、おもしろいモノや人を探して旅を続ける。
書籍、コラムやルポを書くかたわら、イベントの企画やアートスペース「山小屋」も運営。
著書に、『パリでメシを食う。』(幻冬舎)、『パリの国連で夢を食う。』(イースト・プレス)、そして第33回新田次郎文学賞を受賞した『バウルを探して~地球の片隅に伝わる秘密の歌~』(幻冬舎)がある。