その日のうちに東京に戻るために、僕は12時には山を下り始める予定だったから、あと1時間しかない。
大鳥池まできて釣果ゼロは、悪夢だ。
焦りが募って、昨日の山道で作ったどうでも良い言葉が頭に思い浮かぶ。
「足元を見るな。空を見ろ」
空を見ても釣れないよ!
破れかぶれな気分になった僕は、水門付近をバタバタと歩き回り、ルアーを激しく動かした。小魚と間違えてルアーに食いつく、という通常の使い方では反応がないので、ルアーの不規則すぎる動きに翻弄された魚が釣り針に引っかかる、という独自路線を狙ったのである。ほかに釣り人がいたら怒られてしまうかもしれないが、その日、大鳥池にいたのは僕ひとりだし。
そうして釣竿をギュンギュン動かして数分が経った頃、突然、釣り竿にググッと重みがかかった。それまで一度も感じたことのない感触だ。
こ、こ、これは!!!
そういえば、最も肝心な「魚が引っかかった後にどうすればいいのか」を釣具店の店員さんに聞くのを忘れた。僕の数少ない知識では、リールを巻いたり戻したりして駆け引きしているイメージがあるけど、そうしていたのはマグロを狙う松方弘樹だ。
仕事も、恋愛も、何もかも、駆け引きが苦手な僕は、思い切って一気に引き上げた。
釣り針の先には、5センチほどの小魚が揺れていた。
川内イオ