本明寺では、住職の好意で本明海上人の姿を間近で見させてもらった。334年間、即身仏として今の姿をとどめてきた本明海上人。宗教上では「仏様」であり、衣を羽織って祀られているが、誤解を恐れずに言えば、人の亡骸である。頭ではそう理解しているのに、まるで恐れや畏怖を感じない。住職の話を聞いていて、その理由がわかったような気がした。
「本明海上人は入定に際して、『町を見渡せる場所を』と本明寺からほど近い山中に石室を築き、現代の言葉に直すと『自分はこれから即身仏になるから、のちの世の人々が自分に対してお願いすることは、どんな願いでもかなえてあげよう』という意味の言葉を遺しました。実は、先代である僕の父が住職を務めていた時は、ありがたい仏様を見せモノにはできないということで即身仏様は非公開でした。でも本明海上人の言葉を思えば、皆さんに手を合わせていただくのが本来の形だと思んです。それで私の代から公開するようになったら、皆さん、若い方も高齢の方も、自然と手を合わせていかれるので、公開してよかったと思っています」
即身仏とは、厳しい修行に命を捧げて自ら仏になることを目指すものだが、決して悟りを開いたり、仏になること自体がゴールではない。空海がそうであるように、自分のためではなく、時を超えて疫病や飢饉に苦しむ民衆を救うために、仏になるのだ。これは今回の即身仏の取材に際して事前に調べていたことではあったけど、実はその命をかけた利他的行為に現実味を感じなかった。失礼を承知で言えば、そんな人いるの? と思ったのだ。
しかし、今回の取材を通してわかったことがある。真如海上人、鉄門海上人、鉄竜海上人、本明海上人の修行の内容や人生の歩みはそれぞれ異なるが、即身仏に至る過程は一様に凄烈で、想像するだけで気が遠くなる。こういう壮絶な修行というのは、きっと自分のためにはできない。見栄やプライドで耐えられるようなレベルの話ではない。
人は、誰かほかの人のためを思って行動する時に想像を超えるような力を発揮するというが、即身仏になった上人たちは、まさしく世のため、人のために全力で向き合った。それでも決して尽きることのない民衆の苦しみや悲しみに思いを馳せ、自分にできる最後の挑戦として、即身仏になる道を選んだのではないだろうか。
「自分はこれから即身仏になるから、のちの世の人々が自分に対してお願いすることは、どんな願いでもかなえてあげよう」
本明海上人の最後の言葉を聞いて、そう腑に落ちた。
川内イオ