真如海上人は、どんな人だったのだろうか。
「山形県の朝日村の出身で、山から伐採した木をソリでおろす、ソリ引きの仕事をしていました。ところがある日、3人の子どもに頼まれてソリに乗せてあげたところ、事故で1人が亡くなってしまった。それで、私は一生この子を弔っていきますと誓って、大日坊に入門して湯殿山での荒行に入りました」
この荒行が、過酷だ。まず、体づくりをするために湯殿山で厳しい修業をしながら米、大麦、小麦、小豆、大豆の五穀を1000日間断つ。それが終わると山を降りて、弟子たちを引き連れて托鉢に回る。東北6県、新潟、長野まで足を伸ばしたという記録があるそうだ。
さらに托鉢をしながら、五穀に加えてに粟(あわ)、稗(ひえ)、蕎麦、とうもろこし、きびを加えた十穀を1000日間絶つ。この十穀絶ちの間、口にできるのは木の実、木の皮、木の根、山菜、きのこ、たけのこなどで、これを「木食行(もくじきぎょう)」という。托鉢中にもらったお布施や食料は、「布施の行」として貧しい人たちに全て配る。
こうした修業を繰り返している間も、飢饉や疫病で民衆は苦しんでいた。そこで真如海上人は、当時としては異例中の異例の96歳まで生きていたが、自らの命をかけて人々を救うことが使命だと、1783年(天明3年)即身仏になったそうだ。ちなみにこの年は天明の大飢饉の真っただなかで、東北地方の農村部を中心に数万から数十万人が餓死したといわれる。
川内イオ