この旅の最後に向かったのが、冒頭にも記した本明寺だった。ここで祀られている本明海上人は、珍しい経歴を持っている。もともとは富樫吉兵衛という名を持つ侍で、酒井家に仕えていた。39歳の時、藩主が病気になったため、吉兵衛は他の5人の家来とともに湯殿山で平癒を祈願するように命じられた。その際、何か感じるものがあったらしく、ひとりで湯殿山に残って祈願を続けた。
その身勝手な振る舞いによって妻子追放、食禄没収という厳しい罰を受けたが、吉兵衛は「自分はこのまま行者の道に進みます」と注連寺で仏門に入り、本明海と名乗った。その後、藩主の病気が回復したため、妻子は戻され、食禄も加増されたが、本明海は修行を続け、荒廃していた寺に入って本明寺として立て直した。そして晩年、1000日間の五穀絶ち、さらに1000日間の十穀絶ち、その後、5カ月間、松の薄皮だけを食べるという過酷な木食行ののち、1683(天和3)年に入定した。
本明海上人は、現存する湯殿山にまつわる即身仏のなかでは最も古い。そのため、後世の僧侶や庄内地方一帯に伝わる「即身仏信仰」に少なからず影響を及ぼしたと言われている。例えば、酒田市の砂高山海向寺に祀られている即身仏の忠海上人は本明海上人の甥だし、前出の鉄門海上人や新潟の村上にある大悲山観音寺の即身仏、佛海上人は一時期、本明寺の住職を務めていた。毎日のように本明海上人の即身仏に接しているうちに「自分もいつか……」と思ったとして不思議はない。
明治の廃仏毀釈の際、放火されて本明寺の本堂は焼け落ちたが、「不思議な力を持っていた」と言い伝えが残る本明海上人が祀られているお堂だけは、やはり無傷だったそうだ。
川内イオ