そうして各地で様々な社会的事業に携わりながら、1829(文政12)年、71歳の時に土中入定して、即身仏となった。
明治時代に吹き荒れた廃仏毀釈、神仏分離という仏教弾圧の流れのなかで、先の大日坊瀧水寺とともに真言宗を護持した注連寺は1888(明治21)年に全焼し、あらゆる記録が失われた。そのため、鉄門海上人がなぜ即身仏になろうと決断したのか、どこに入定したのかなどは定かでないが、文政年間と言えば江戸幕府が異国船打ち払い例を出し、シーボルト事件が起きるなど政治体制が大きく揺らぐなかで、蔵王山の噴火(1821年)、 越後の大地震(1828年)、江戸の大火(1829年)などが起きている。
世のため、人のために獅子奮迅の活躍をみせた鉄門海上人が、衆生済度(生きているものすべてを迷いから救済し、悟りの境地に導くこと)を目指して入定したと考えても、なんの違和感もない。
鉄門海上人の即身仏は注連寺の一角で祀られている。手を合わせながら、ふと思った。廃仏毀釈、神仏分離によって徐々に寺社としての存在感を失っていく中で、佐藤住職の先代は「もう一度、一般の方が参拝に訪れるような寺にしたい」という想いから、注連寺の本堂の天井に絵を描くことを思いついたという。
それから天界と俗界の接点を天井に見立てた伝統絵画一作と現代絵画四作を画家に依頼し、天井に飾ったところ、それが「天井絵画」として注目を集めて、多くの参拝客を引き寄せることにつながった。2009年には、フランスのタイヤメーカー、ミシュランが発行する日本の旅行ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で、注連寺、鉄門海上人が二つ星に輝き、合わせて天井絵画も一つ星を獲得している。
本堂の天井に絵を描くという大胆なアイデアと実行するパワーはまさに、タコ漁の道具まで発案した鉄門海上人を思わせるもの。もしかすると鉄門海上人が注連寺の危機を救ったのかもしれないなと思いながら、僕は次の目的地、南岳寺に車を走らせた。
川内イオ