渡りに船、というより、渡りに牛。県営育成牧場は閉鎖を控えて活動を縮小していたのか、既に山頂には雑草が生い茂っていたが、島崎さんは気持ちが昂った。
「大野山は登山者が多いから、山地酪農をいろいろな人に知ってもらうにはいい場所なんじゃないかなと思ったし、地域の方が山地酪農を知っていたことも大きかったですね。それに私、高校の時に陸上をやっていて、丹沢湖畔を走る駅伝で山北町に3回来てるんです。それで縁を感じました」
岩手に戻った島崎さんは、中洞さんに「山北町に行って牧場をやりたい」と告げた。中洞さんからは「もっと岩手にいてもいいんだぞ」と言われたが、島崎さんはもう大野山で牧場を営む自分を想像していた。
就職の時と同じく、こうと決めたら島崎さんはぶれない。初めて大野山に行ってから10か月後の2016年9月には大野山に移住した。この時、まだ牧場を始められると決まっていなかったというから、大胆だ。
移住してからは、ほかの牧場でアルバイトをしたり、地域のNPOで山仕事を手伝ったりしながら、慣れない事業計画書を書き上げた。育成牧場があった土地は地域が所有する「財産区」にあたるため、共和地区の住民たちの合意を取り付ける必要があったのだ。
移住から半年後、島崎さんが住民に事業計画を説明するための会合が開かれた。会社員ではなかったから、プレゼンには慣れていない。もし反対する住民がいたらどうしようという不安も募る。緊張のなか、それでも精一杯、自分の思いを伝えた。すると、ひとりの住民が声を上げた。
「若い人がここで頑張ろうとしてるんだから、応援してやろうじゃないの」
ほかの何人かの住民もこれに同調したことで会合の雰囲気が明るくなり、「前向きに進めましょう」ということで落ち着いた。島崎さんにとっては一世一代のプレゼンだった。
川内イオ