10月末の16時過ぎ。標高723メートルの大野山の山頂付近にはひんやりとした風が吹き、牧場からドカーンと見える富士山が茜色に染まり始めた。島崎さんは搾乳室の外側につけられた鐘を鳴らしながら、「こー、こー」と声を上げると間もなく、林のなかから5頭の牛がぞろぞろと現れた。
「こー」というのは岩手の言葉で、「来い」という意味だ。岩手で生まれ育った牛たちはその言葉を理解し、くつろいだ様子で自ら囲いに入っていく。続いて、島崎さんが搾乳室の扉を開けて、たらちゃんおいで! と優しく声をかけると、右耳に「たらちゃん」と名札をつけた牛がのっそりのっそりと扉のなかに足を進める。動物園で見るようなパフォーマンスではない日常のなかの自然なやり取りを見て、僕はこれこそ人間と牛の幸せな関係なんじゃないかと思った。
今年6月にオープンしたばかりの「薫る野牧場」には牛舎がない。牛たちは、大野山の山頂にある8.8ヘクタールの牧場のなかで、1日2回の搾乳時以外、24時間、朝から晩まで放牧されている。牛たちの食事は山の草。ほかの牧場では当たり前のように与えられている配合飼料は、この牧場にはない。島崎さんはいう。
「配合飼料は、牛にたくさんお乳を出してもらうために栄養計算したものです。でも、牛がそもそも食べるものじゃないもの、トウモロコシとか小麦とか草以外の穀類が含まれているので牛に内蔵にとっても食べ過ぎちゃうとよくないことが起きてしまいます」
川内イオ