一般的な牧場で飼われている乳牛は身体の不調などが原因でわずか5、6年で役割を終え、その後は人間か動物が食べる肉となる。良いとか悪いではなく、それが乳牛の当たり前だ。でも、島崎さんは19歳で大往生した乳牛を知っている。
「その牛は19歳で赤ちゃんを産んだし、お乳も出ていました。出産から数か月後に亡くなったけど、獣医さんが診断書に『老衰死』と書いた乳牛は、日本でその牛だけかもしれません。それぐらい珍しいことです」
酪農業界の常識を覆す老牛が暮らしていたのは、岩手の岩泉町にあるなかほら牧場。オーナーの中洞正さんは1984年から牛の健康、幸福度を第一に考えて24時間365日完全放牧し、農薬や化学肥料を使わない山の草を食べさせ、交配、分娩も自然に任せて牛を育てる「山地酪農」を実践している。
なかほら牧場の牛乳は1本720ミリリットルで1188円。ほかの乳製品も同様に高値だが、どれも人気で牧場の売り上げは年間2億5000万円に達する。
島崎さんは東京農業大学の学生時代、この酪農界のイノベーターが書いた『黒い牛乳』という書籍を読んだのがきっかけでなかほら牧場のことを知った。そして、そこに記された酪農業界の現状に言葉を失った。
「大学時代は4年間、北海道の網走キャンパスで過ごしていたので、農業系のアルバイトをたくさんしました。一度、酪農場の仕事の話があったのですが、たまたま行けなくて友人に紹介したんです。その友人から『面白いよ』といわれて借りたのが、『黒い牛乳』でした。読んでみて……自分は食品科学科だったけど、酪農の仕組みとか実際の仕事について何も知らなかったんだと気づきましたね」
川内イオ