「蔡さんが、海でなにかやりましょうっていうくらいから、色々知ってるのかと思ったら、蔡さんもなんにも知らないんだもんなあ!」(志賀さん)
なにしろ、海の中で火薬を爆発させるなんて、前代未聞だ。みんなで野菜を入れるビニールで導火線をくるんでみたり、導火線の長さや火薬の量を変えたりなど、ひたすら試行錯誤が続く。志賀さんはもう仕事や会社どころではなかった。
「半年間、朝起きるなりに蔡さんの家に向かって『さあ、今日は何をする?』と尋ねる生活だったな」
玄関から出てきた蔡さんは、凍った階段に転びそうになりながら、志賀さんの車に乗り込んだ。
廃船、導火線、莫大な量の塩、重機……などなど、入手すべきものや借りたい技術は無数にあった。ふたりは数十件もの会社や家をまわっては、予算がないことを説明し「お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」と頭を下げた。すると、多くの人が「よしわかった」と快く答えた。砂浜に埋まっていた大きな船を引き上げるのは、特に大変な作業だった。
「地元の土建会社に頼んだんだけど、最初の日はどうやっても掘り出せなくて、どうすっかと思ったら、翌日はもっと大きな重機持ってきてくれたよね。人間ってさあ、お金がなくても、その人の能力が発揮できれば一生懸命やるんだよ」
そこまでの話を聞いて私は、「でも、志賀さん自身はどうして蔡さんのためにそこまでできたんですか」と尋ねずにいられなかった。いい中年男が会社にも行かず、自分の生活を半分投げ出して興味もないアート製作に協力するなんて、尋常なことではない。
「絵の才能っつうのは、俺にはわかんなかった。でも、面白いんだよ、蔡さんが。いろんな壁にぶつかるよね。でも、全然めげない。それも条件のひとつとしてさらに発想を広げてく。アイディアが無尽蔵って感じだよね。俺はお金をかけないでどう実現してするのかをずっと考えてたよ。それを考えるのが楽しかった!」
それは、志賀さん以外の大勢のいわき市民も同じだったようだ。壁にぶつかるたびにみんなで頭を付き合わせて相談する。蔡さんは、人々の意見を聞くなりすぐに古いアイディアを捨て、柔軟に練り直した。そうやってさらにおもしろいアイディアに変化していくさまは、まるで魔法のようだった。
その一方で、環境破壊などを理由に地平線プロジェクトに反対する地元住民もいたらしい。謎の怪文書が漁業組合に流れた。困ったスタッフを前に蔡さんは、「反対者も参加者ですね。大事にした方がいいです」などと飄々としている。どっしりと穏やかな蔡さん周りには、ますます人が集まった。
そして1994年、地平線プロジェクトと展覧会は見事に成功。半年がかりのてんやわんやの祭りが終わったのだ。海の沖合を走った仄かな火の残像は、人々の心に強く焼き付けられた。
展覧会の翌年、蔡さんは慣れ親しんだ日本を離れ、ニューヨークに移住した。そして、いつしか年間十本もの個展をかかえ多忙になった。海辺の家に住む貧乏芸術家は“世界の蔡國強”になった。
展覧会の8年後に出版された地平線プロジェクトの写真集の冒頭に、いわき市立美術館の副館長(現在)のこんな言葉が寄せられている。
「いわき以降、蔡は目覚ましい勢いで国際的に活躍している。けれども、いわきの人々にとって蔡はちょっとたどたどしい日本語を操りながら、共に夢を語り合い、汗を流した友人であり、そうした想いは今も変わらないだろう」(平野明彦氏)
川内 有緒