さて、いわき回廊美術館の話に戻ろう。
蔡國強さんと志賀さんのふたりが初めて出会ったのは、1988年のことである。その頃の志賀さんは会社経営者で、一方の蔡さんは筑波大学の貧乏留学生だった。四畳半の家に奥さんとふたり暮らしをしながら、こつこつと誰にも注目されない作品を作っていた。
『ギャラリーいわき』のオーナーは、その火薬を利用したダイナミックな作品を見るなり、激しく心を動かされた。「火薬画」と呼ばれる蔡さん独特の世界である。無名ながらも大きな可能性を感じたオーナーは、すぐにいわきの自分の画廊で個展を開かないかと声をかけた。
個展の開催中、画廊のオーナーは、蔡さんを応援しようと「この人はきっと有名になる。作品を買っておくといい」と必死に知り合いを口説いてまわった。志賀さんも、付き合いのつもりで快諾した。美術に対してまるで関心がなかったので、作品は見もしなかった。
「7枚で200万円だったな。でも子供たちが気持ち悪がったので、絵はすぐにしまいこんでじゃった。はっはっは!」(志賀さん)
生活費にもこと欠いていた蔡さんは、とても喜んだ。志賀さんに会うと「どうして絵を買ってくれたんですか」と嬉しそうに尋ねた。志賀さんは、「いやあ、だって、頼まれたからだあ」とどこまでも正直に答えた。大陸的でおおらかな性格の蔡さんは腹を立てることもなく、ふたりは良き友人になった。
ちなみに、それらの小作品は、もし今売却すれば都心に大きな家が建つほどの値がつく。しかしながら、志賀さんの作品に対する態度は一貫している。すなわち「ああ、きっとその辺に転がってるべ」という感じだ。
その後、蔡さんは少しずつ現代美術家として認められるようになっていく。それでも彼は、「いわきの人々は、自分を芸術家として出発させてくれた」と感謝し、中国のお茶をお土産に携えて時々顔を出した。
川内 有緒