「当時、『風の谷のナウシカ』を見た柳平さんは、すごく感動して、その日のうちに一番近い映画館を調べて、夜中に新星劇場に電話をしたそうです」
当時の二人は全く面識がなかった。
「いいことを思いついた、この映画を森の中でかけよう」
そう興奮する柳平さんに、柏原さんは「野外で映画? そんなの無理ですよ!」と断った。夜中に電話をかけてきて、迷惑な人だなあと感じたそうだ。
柳平さんは、もともと新しいことが大好きなエネルギー溢れる人で、地元出身の中村さんいわく、例えるならば「ヘリから飛んでスキーで滑っちゃえよ!」みたいな元気なノリの人だったという。そんな彼を、映画祭という新たな方向に突き動かしたのが、『ナウシカ』だった。
『ナウシカ』は、私も小学校六年生の時に劇場で見た。そこで描かれた恐ろしくも美しい世紀末的世界は、小学生の私たちの心の真ん中にどーんと居座り、誰もが『ナウシカ』に夢中になった。
きっと柳平さんも、ものすごい衝撃を受けたのだろう。
「とにかく話を聞いてほしい」と、翌日には映画館に現れ、「とにかく場所を見てほしい。いい場所がある」と粘った。渋る柏原さんが連れてこられた場所は、八ヶ岳が望める静かな木立の中。
当時はまだ八ヶ岳自然文化園はなく、ただ木々が生い茂る草原だったそうだ。
柏原さんは、大自然の中で空を駆け巡るナウシカを想像した。
そして、思わず「やりましょう」と返事をしていた。こうして二人のチームで、手作りの映画祭が始まった。
こうして、迎えた記念すべき第一回目は1984年。
掘っ建て小屋のような映写小屋を立て、電気を引き、スクリーンを手作りし、木からスピーカーを吊るした。すると、ただの草原が映画館に変わった。上映された映画は、『風の谷のナウシカ』である。
その後も二人の情熱はさめることもなく、やがてはペンション村の夏の風物詩として定着していった。中でも伝説となったのは『タイタニック』。全てのペンションの前にずらりと渋滞がでたそうだ。
武川さんは、そんな二十年以上に及ぶドラマを聞いて感激していた。気がつけば、三時間近くが経過していた。
それでも「最近はだんだんとお客さんが減ってしまい、やむなく中止にしたんだ」という説明を聞くと、簡単には「復活しましょう」とは言えなかった。
ただ、柏原さんは「でも、やり方を変えたらまたできるかもねえ」と何気なく言う。それを聞き逃さなかった武川さんは、「そこなんです!」と話を前に進めた。
「いまはSNSとかもあって、告知する方法もあるので、大勢の知らない人にも情報を届けられます」
そう熱心に話すと「じゃあ試しにもう一回やってみるか」と柏原さんは頷いた。柏原さんも、本当は映画祭を続けたかったのだ。
武川さんは、その時を振り返って言う。
「“サービス“ができなくても企画力やロケーションで勝負できるんじゃないかという確信はあった」
こうして2010年、今度は若い人たちが中心になり、「星空の映画祭」と名前を変えた映画祭が、再出発の狼煙をあげた。
川内 有緒