さて、何も知らない武川さんは、秋山さんからの電話に興味を惹かれ、「自分も何か手伝えることがあれば」と協力を約束した。
しかし、肝心の映画祭は、誰が運営していたのかは秋山さん自身も知らなかった。
「ネットで検索してみても、ほとんど主催者情報は出てなかったんです。だから誰がやっていたのかをまずは調べようということになり、帰省した時に調べ始めました。調べるっていっても、ひたすら原村近辺の人に聞き込みです。すると、不動産業やペンションを営む柳平二四雄(やなぎだいらふじお)さんという男性が運営していたことがわかりました」
住所も判明したので、さっそく自宅を二人で突撃することに。
緊張しながらインターフォンを押したが、家の中は静かだった。留守のようなので、その日は手紙を置いて帰った。
ドキドキして待つこと二日、柳平さんから「留守にしていて会えず申し訳なかった。手紙をもらえて嬉しかった」と連絡が入り、後日会う約束を取り付けた。
その時、武川さんは、映画祭を自分自身で復活させる決意をしていたのだろうか?
「いや、ぜんぜん。ただ、『自分は映画館で働いていて、爆音映画祭の経験もあるので、復活してもらえたらなにかお手伝いくらいはできる』と言うつもりでした」
ところが、実際に柳平さんに会うと、「復活してください」とは言い出しづらくなったそうだ。柳平さんはもう六十代後半で、「自分たちはもう高齢だし、映画祭に必要な資金を集めるのも難しい。それにお客さんも減ってきている」と話す。休止になる直前の年は、柳平さんは、資金作りのために自分の車を売ることまで考えたという。
そして話す中で、これまでの映画祭は、茅野駅の近くにある映画館、新星劇場の館長の柏原昭信さんと二人でやっていたことがわかった。この地域では唯一の映画館である。
それを知った武川さんは、すっかり驚いてしまった。彼から見るとかなり大規模な映画祭だったのに、たった二人の“普通のおじさん”が映画への情熱のみを糧に二十年も続けていたのだ。
最後に、柳平さんはこう言った。
「実は、お前たちみたいな若いのがくるのを待ってたんだよ。やる気があるんだったら、映画館の館長につなげてあげるから行っておいで」
そう背中を押してくれた。
思いがけずバトンを渡された二人は、今度は新星劇場の柏原さんを訪ねることになった。
川内 有緒