夕方、私たちは冒険学校の前に広がる雪景色を眺めながら、雲の向こうに沈みゆく夕日を眺めた。夕日が落ちる直前には、凍てつく風が吹き始め、最上町の冬の厳しさを思わせた。最上町の長い冬はまだ始まったばかりだ。
「川内さん、俺、北極いってよかったよ。(極地)を歩いたことばかりじゃなくて、いろんな人に会えたもん」
と大場さんはポロリと言った。
その時の大場さんの頭の中に、誰が浮かんでいたのだろう。きっと、人生という冒険のなかで出会った大勢の人たちのことを想っているのだろう。
――もし大場さんが都会に生まれていたら、果たして冒険家になっていただろうか――
急にそんな疑問が頭に浮かんできた。質問をしてみると大場さんは、「いやあ、それはわかんね! そんなの、わかんないよ、川内さん!」と正直に答えた。
その通りだ、仮定のことなど、誰もわかりはしない。
ただ、それでも確かなことはある。この山形県最上町の豊かで厳しい大自然こそが、冒険家としての強い根っこを育んだことだ。
「そう、俺を育てた故郷の農業と、出稼ぎの時のドカタの体験が北極を歩かせてくれたんだよ。だから俺はいつもいろんな人に言ってるの。農家のおばちゃんはみんな北極を歩けるよって!」
そう考えれば、人はどんな場所でも冒険ができるし、誰もが冒険家になれる可能性を秘めて生きている。
それでも、思い違いをしてはいけないのは、大場さんにとっては、「冒険家」という肩書きを得ることが人生の目的ではなかったことだ。
大場さんは自身の本のなかでこう書いている。
「世界初の両極単独徒歩行」という“勲章”が加わった今でも、わたしの夢は変わらない。それはあの鷹匠のじっちゃんのように、死ぬ間際まで輝いた目をして生きていくことである
大場さんにとっては、きっと北極も南極もあくまで通過点でしかなかった。そこに住む人々と出会い、友人と助け合い、大自然に身を置き、地球と対話すことを楽しむ。そんな風にいつでも輝いた目をして生きるひとつの手段が、冒険だったのかもしれない。
今でも大場さんは山の中を走り、川でカヌーに乗り、パラセールで雪原を進む。その元気な様子を見ていると、80歳でエベレストに登頂した三浦雄一郎さんみたいに、望めばまた北極を歩けそうだ。
だから思わず聞いてみた。
「大場さん、もう一回北極にいってみたいですか?」
すると大場さんは、迷いなく即座に答えた。
「いや、いまはもういいかな。ひとりで満足するくらいたくさん歩いたから! いまは生きてることが冒険だから。友達も親もみんな死ぬときは死ぬでしょう。だから、人間はこうして生きていられること自体が冒険なんだ。北極に行ってよかったのは、そう感じることができること。それが宝だね」
川内 有緒