大人になった大場さんは、農家を継ぎ、米や野菜を作り始めた。自然のなかで体を動かすことが好きだったので、農業自体が嫌だったわけではなかった。しかし、その一方で冬の出稼ぎ労働には、気が滅入った。
集落が深い雪に閉ざされる冬の間、男たちは誰もが都会に出稼ぎに出た。何ヶ月も家族と離れて暮らし、道路工事や下水道工事で現金を稼ぐ。そして、また春になると村に戻るのだ。
家族や周囲に「出稼ぎに行きたくない」と言えば、「バカ、出稼ぎにいかないと食っていけねえぞ!」と叱れた。
「このまま死んでいくのかと思ったら息がつまりそうになってね。ある日、下水道工事の現場で冷えた弁当食べてたら、じっちゃんが俺に言ってた『好きなことをやらないと、笑って死ねないぞ』っていう言葉が蘇ってきたんだ」
そうして、大場さんの旅が始まった。
時は70年代で、まだ海外旅行が珍しい時代だ。初めて行ったのは西ヨーロッパ。パリの空港で言葉が通じず、急におじけずいて、偶然に見かけた日本人ビジネスマンのスーツの袖にしがみついて、助けてもらったという。親切なその日本人は、「大場さん、もうこのまんま日本に帰った方がいいんじゃないですか」と忠告した。それほど大場さんが不安そうに見えたのだろう。
しかし、大場さんは旅を続行。西ヨーロッパを巡って山形に帰ったものの、また別の国を見て見たくなり、アフリカに向かった。
「ケニアのナイロビの近くの草原で寝てたらさ、頭のところに置いていた靴がないんだよ。ポリスに行って靴屋はどこだって聞いたら、今時マサイ族だって靴を履いてるぞーなんて言われちゃってねー、ハハハ」
大場さんは地元の村に戻るとその経験を話してまわった。しかし、ほとんど誰も興味を持ってくれず、むしろ奇人扱いされたという。
川内 有緒