未知の細道
未知なる人やスポットを訪ね、見て、聞いて、体感する日本再発見の旅コラム。
129

職業欄は冒険家!?

山形の大自然が生んだ冒険家・大場満郎さんの「死ぬまで輝いた目で生きる」という人生の挑戦

文= 川内有緒
写真= 川内有緒
未知の細道 No.129 |10 January 2019
この記事をはじめから読む

#7氷の上を1750キロ

アマゾンなどの様々な冒険や単独徒歩による北極海横断の挑戦について語る大場さん

こうして、1994年から1997年にかけて、4回にわたる単独徒歩による北極海横断の挑戦が行われた。「前人未到」というだけあって、その過酷さはこれまでと桁違い。挑戦は苦闘の連続だった。なにしろ、北極には大陸というものがない。だから、凍って流れていく海の氷の上を、ソリを引きながら渡っていく。流される氷がぶつかりあって、すぐそこの氷が一気に割れてしまうこともあった。
「北極はいつもすごい音がするよ。ゴーンゴーンとか、ズッズッズッ、ザッザッザッ、ブゥブゥブゥとか」

特に2回目の挑戦では、ひどい凍傷にかかり、足の指全てと手の指の二本を切断した。その時のことを振り返り、大場さんこう言う。
「本当は、うまくいかないときはやめた方がいいんだ。もう一回仕切り直したほうがいい。でも、それが難しいだよね。このまま日本に帰ったら人になんて言われるかなとか、せっかく応援してもらったのに、とか。日常生活でもおんなじだよね。このまま進んではいけないってわかってても進んじゃうんだ。だから会社がつぶれたりとか、いろんな問題を引き起こしてしまうんだよね」

また大場さんは、一連の挑戦の途中で、結婚を約束した恋人を病気で失くしている。だから一時期はもはや冒険どころではなかった。
「もう日本にいられないくらい落ち込んでしまって。その時に、知り合いがポール(アメリカ人で、世界的サックス奏者のポール・ウィンター)のところにいったらいいんじゃないか、って勧めてくれたんですよ。ポールには初めて会ったんだけど、コネチカット州の広い農場がある敷地に暮らしていて、そこで俺は有機栽培で無農薬の野菜を作ってた。それを使った料理を囲んで、世界中から集まったミュージシャンが演奏して。そういう生活をしているうちにまた元気になれたんです。不思議ですよね、いつも必ずこうして助けてくれる人が現れるんですね」

そうして迎えた4回目の挑戦は、1997年の2月に始まった。今回は、それまでの3回とは異なる作戦をとることにしていた。それは、北極点で、飛行機による物資の補給を受けることだ。ソリで全てを運ぶ「無補給」という部分を諦めたのである。その時、「補給係」という生命線ともいえる大役を頼まれたのが、前述のいわきの志賀忠重さんだった。

志賀さんは、冒険のサポートについては何も知らなかったものの、自分の仕事を投げ出して、2ヶ月以上もレゾリュートに滞在。無我夢中で冒険のサポートを行った。

大場さんは、遺書を書くほどの窮地に追い込まれながらも、出発から122日後、無事にゴールのワードハント島に到着。その日は、素晴らしい日本晴れだったという。ゴール地点まで迎えに行った志賀さんと大場さんを写した写真は、翌日の朝日新聞の1面を飾った。

北極海横断の翌日、朝日新聞の1面を飾った
このエントリーをはてなブックマークに追加


未知の細道 No.129

川内 有緒

日本大学芸術学部卒、ジョージタウン大学にて修士号を取得。
コンサルティング会社やシンクタンクに勤務し、中南米社会の研究にいそしむ。その合間に南米やアジアの少数民族や辺境の地への旅の記録を、雑誌や機内誌に発表。2004年からフランス・パリの国際機関に5年半勤務したあと、フリーランスに。現在は東京を拠点に、おもしろいモノや人を探して旅を続ける。書籍、コラムやルポを書くかたわら、イベントの企画やアートスペース「山小屋」も運営。著書に、パリで働く日本人の人生を追ったノンフィクション、『パリでメシを食う。』『バウルを探して〜地球の片隅に伝わる秘密の歌〜』(幻冬舎)がある。「空をゆく巨人」で第16回開高健ノンフィクション賞受賞。

未知の細道とは

「未知の細道」は、未知なるスポットを訪ねて、見て、聞いて、体感して毎月定期的に紹介する旅のレポートです。
テーマは「名人」「伝説」「祭り」「挑戦者」「穴場」の5つ。
様々なジャンルの名人に密着したり、土地にまつわる伝説を追ったり、知られざる祭りに参加して、その様子をお伝えします。
気になるレポートがございましたら、皆さまの目で、耳で、肌で感じに出かけてみてください。
きっと、わくわくどきどきな世界への入り口が待っていると思います。