こうして、1994年から1997年にかけて、4回にわたる単独徒歩による北極海横断の挑戦が行われた。「前人未到」というだけあって、その過酷さはこれまでと桁違い。挑戦は苦闘の連続だった。なにしろ、北極には大陸というものがない。だから、凍って流れていく海の氷の上を、ソリを引きながら渡っていく。流される氷がぶつかりあって、すぐそこの氷が一気に割れてしまうこともあった。
「北極はいつもすごい音がするよ。ゴーンゴーンとか、ズッズッズッ、ザッザッザッ、ブゥブゥブゥとか」
特に2回目の挑戦では、ひどい凍傷にかかり、足の指全てと手の指の二本を切断した。その時のことを振り返り、大場さんこう言う。
「本当は、うまくいかないときはやめた方がいいんだ。もう一回仕切り直したほうがいい。でも、それが難しいだよね。このまま日本に帰ったら人になんて言われるかなとか、せっかく応援してもらったのに、とか。日常生活でもおんなじだよね。このまま進んではいけないってわかってても進んじゃうんだ。だから会社がつぶれたりとか、いろんな問題を引き起こしてしまうんだよね」
また大場さんは、一連の挑戦の途中で、結婚を約束した恋人を病気で失くしている。だから一時期はもはや冒険どころではなかった。
「もう日本にいられないくらい落ち込んでしまって。その時に、知り合いがポール(アメリカ人で、世界的サックス奏者のポール・ウィンター)のところにいったらいいんじゃないか、って勧めてくれたんですよ。ポールには初めて会ったんだけど、コネチカット州の広い農場がある敷地に暮らしていて、そこで俺は有機栽培で無農薬の野菜を作ってた。それを使った料理を囲んで、世界中から集まったミュージシャンが演奏して。そういう生活をしているうちにまた元気になれたんです。不思議ですよね、いつも必ずこうして助けてくれる人が現れるんですね」
そうして迎えた4回目の挑戦は、1997年の2月に始まった。今回は、それまでの3回とは異なる作戦をとることにしていた。それは、北極点で、飛行機による物資の補給を受けることだ。ソリで全てを運ぶ「無補給」という部分を諦めたのである。その時、「補給係」という生命線ともいえる大役を頼まれたのが、前述のいわきの志賀忠重さんだった。
志賀さんは、冒険のサポートについては何も知らなかったものの、自分の仕事を投げ出して、2ヶ月以上もレゾリュートに滞在。無我夢中で冒険のサポートを行った。
大場さんは、遺書を書くほどの窮地に追い込まれながらも、出発から122日後、無事にゴールのワードハント島に到着。その日は、素晴らしい日本晴れだったという。ゴール地点まで迎えに行った志賀さんと大場さんを写した写真は、翌日の朝日新聞の1面を飾った。
川内 有緒