天童に着いてまず最初に向かったのは、天童駅に直結している「天童市将棋資料館」だ。職人さんの話を聞く前に、将棋自体のことを知っておきたかった。
しかし方向音痴の私が迷い込んだのは、同じ建物にある観光ボランティアガイドの窓口だった。ドアを開けると「観光協会ボランティア」と書かれた看板の奥に年配の男性が座っていた。資料館は後回しにして、将棋駒ブームですね、と話しかけてみる。
「ブームなんでしょうねえ。最近は本当に忙しくて。桜の時期は、ちょうど映画が公開されたこともあって、女性の観光客がいっぱいだったんですよ」
天童市では毎年4月に天童桜まつりが開催され、そこで人間将棋が行われる。舞鶴山にて、武将に扮した人々が将棋駒の動きをして対戦するというものだ。天童市の人気イベントのひとつで、毎年春には多くの観光客が訪れる。
そして、ゲストに『3月のライオン』の監督、大友啓史さんと主演の神木隆之介さんが招かれた今年、来場者は5万人を超えて過去最高人数を記録した。あまりの人の多さで会場に入り切らず、シャトルバスもストップしたという。
話を聞かせてくれたのは、佐藤敏昭さん。観光ボランティアガイドの大ベテランで、他のボランティアの人たちも「佐藤さんに当たるとはラッキーだなあ」と言いながら通り過ぎて行った。
「天童は将棋の街ですからね。いろんなところに将棋駒がありますよ。この駅の形もそう」
駅の形まで! 確かに外から見てみると先の尖った建物が、将棋駒を彷彿とさせるような気もする。
「でもね、すべての始まりは織田信長なんですよ。歴史、わかります?」
どうしよう、歴史は得意ではない。織田信長は将棋が強かった、とか? どんなに必死で考えても、私の知っている織田信長と将棋駒は、最後まで繋がらなかった。諦めて佐藤さんに説明をお願いする。
「じゃあそれは、うちの偉い人に聞いてみてください」
そう言うとおもむろに立ち上がり、奥の事務所まで案内してくれた。座っていたのは天童市観光物産協会の専務理事、林祟氏さん。にこやかな笑顔で、「天童市の取材は大歓迎です」と出迎えてくれた。
「『聖の青春』だとか『3月のライオン』だとか、将棋をテーマにした映画が話題になって、将棋に少し風が吹いてきたかなというところで、藤井さんが出現して。今まで、新人の棋士が全国紙の一面トップになることなんてなかったですからね。若い方のファンが増えたなぁという印象がありますね」
特に女性のファンが増えたことで、自分の子どもに将棋を勧める母親が増えた。最近では、プラスチックの初心者向けの駒が売れているという。
「最初はそういう駒から初めて、だんだんと伝統工芸の駒のほうに興味を持ってくれればいいですね。でも将棋駒職人自体が減っていますから、急に買いたいと言われても全然追いつかないんですよ」
他の伝統工芸と同じく、やはり将棋駒にも職人の高齢化の問題がある。長い時間をかけて技術を身に着け、丁寧にモノを作る。そういった伝統工芸の良さが、一方で後継者の育成を難しくしているのだ。
ところで、佐藤さんが言っていた「織田信長と将棋駒の関係」とは、なんだろう。林さんに聞いてみると、興味深い話が聞けた。
「織田藩が幕末、ここ天童に本拠地を置いていたとき、ものすごい貧乏したんです。将棋の駒は、実は藩士が内職として始めたのが最初なんですよ。しかも最初はね、決して立派な駒を作っていたんじゃない。戦争のときに兵隊さんが持っていくためものを作っていたんですよ。天童の職人はそういう駒を、たくさん作るのが得意だったから、業として栄えたということなんですね。そのあとですよ、だんだんいいものを作ろうという形になったのは。ですから、将棋の駒と織田藩ってのは切っても切れないわけです」
将棋駒の内職自体、他の地域の藩がやっていたのをもらってきて始めたという。もともとこの地に根付いていた伝統ではなく、織田藩が食べていくために、どうにかして始めたのが将棋駒作りだったというのだ。
「天童の将棋駒は、織田藩の貧乏が作り上げた面白い伝統工芸です」
織田藩の貧乏が元になって、今の天童を作っているものは他にもたくさんあるという。いつまでも聞いていられそうだったが、そろそろ資料館に戻ることにした。
ウィルソン麻菜