こんなに難しい仕事を、二人は一体どうやって学んでいったのですか? と私は聞いてみた。
すると藤さんが「いやー教わって覚えるもんじゃなかけんねえ、おいも高校を出てすぐ親父が死んでしまって後を継いだけん、高校生の頃ちょっと手伝ってたり見たりしただけのことを思い出しながら、あとはずっと自分で研究してやってきたね」それを聞きながらウンウン、と山辰さんも頷いている。
二人とも、「人それぞれ手や指の作りも違うからそれによって感覚が違う。だから教えられるもんじゃないし、とにかく作業をよく見てあとは自分の感覚で覚えてやっていくしかない」とにこにこしながら言うのであった。
ちなみに山辰さんは高校を卒業後、京都の窯元で5年間修行した。
え? 焼き物を作る方の仕事がやりたかったのですか? と聞くとそうではなかった。いずれ型屋を継ぐのであれば、焼き物を作る人の気持ちがわかった方がいい、それから外へ出て人見知りを直してこい! と言って社長である父親に外へ修行に出されたんです、と山辰さんは笑って言った。丁寧に私にいろんなことを教えてくれる山辰さんからはあまり想像がつかないが、子供の頃はとても人見知りで喋るのが嫌いだったらしい。
山辰さんのお父さんのこの話からわかるように、分業制のラインの中で、自分たちが作ったものが次に渡った先のことを考えて作ることが、有田で仕事をする上で実は非常に大事な部分なのだ。型屋だったら生地屋さんや発注を受けた窯元や商社に、生地屋さんだったら窯元や釉薬などをかける職人さんたちにとって、使いやすくいいものが生まれるように渡していく。そのスピリットこそが、この町から、世界に誇る高い技術を400年の間、途切れることなく生み出していったのだろう。
藤さんが自分の親の代よりも今の方が、求められる形が複雑でシビアだから仕事そのものとしては現代の方が難しいのだという。
「でも」と山辰さんがその話を受けて話し出す。「400年の技術の蓄積があるからこそ、できることなんですよね。だから現代の自分たちの技の方がすごい、なんては思わない」そう語る山辰さんの言葉に、藤さんも頷いていた。
松本美枝子