さて「藤生地」の工房に着く。するとにこにこしたおじさんが待っていてくれた。藤祐治さんである。その傍らにもう一人、藤さんよりひとまわりくらい若そうなメガネをかけた男性がいた。「型屋」の山辰さん、こと山辰製型所の山口幸彦さんだった。山辰さんは藤さんの隣に工房を構えていて、つまり二人はお隣同士であり、こうして、しょっちゅう行き来しているらしい。
深江さんが「生地屋さんと型屋さん、両方一緒に会えるなんて、松本さん、これはちょうどいいタイミングですよ! これは良かった!」などと言っている。生地屋もまだよくわからないのに、型屋とは? はじめて聞く職種名がポンポンと出てくるので、頭が追いつかない私である。
さて藤さんの工房を見渡していくと、お皿や茶碗、蓋、カップ、のようなものが、それぞれ同じ大きさのものでズラリと並んでいる。それから、なんだかよくわからない、石膏で出来た、ぶ厚いボウル? のようなものもたくさんある。
器のような、と書いたのは、それらが、私たちが普段使う器より、少し厚めで大きく見えたからだ。それにこれらはよく見ると、まだ焼成されてない、焼き物の前の段階なのだった。
藤さんの仕事は、この焼かれる前の成形したものを、同じ形で大量に作ることなのだ。つまり有田における「生地」とは、成形した焼成前の器の前身であり、よく乾かして完成すると「荷引きさん」と呼ばれる運び専門の人たちが、専用の車で引き取りに来る。その生地が窯元の中の絵付けや釉薬をかける職人に渡されて綺麗な装飾が施され、さらに窯で焼かれて完成する。
さらに出来上がったものは有田ブランドとして、商社の手によって全国のお店で売られることになる。この一連の行程の中には、他にもまだまだ細かい技術職がたくさんあるのだ。もともとどのパートも大きな窯元の中にあったが、昭和の戦後になって、あらゆるものが大量生産されるようになると、生地屋や型屋、絵付けなどのそれぞれの専門の職人が独立するようになる。特にバブルの時代は窯元だけでは生産が追いつかず、どんどん仕事がそれぞれの職人たちに発注されるようになったという。つまり有田とは、街全体が一つの大きな工場のようなものなのだ。
このように細分化されているからこそ、一人で作るより、その部門部門の技術が非常に高くなっており、さらに普通の行程に比べてずっと手間がかかって作られているからこそ、有田焼は高級品というわけだ。
そして工房にたくさん置かれていたもう一つのもの、石膏で出来た分厚いボウル型の物体。これが「型」である。この型を使って藤さんたち生地屋さんは、精度の高い生地を大量に生産する。その型を作るのが、山辰さんたち「型屋」の仕事なのだった。型屋と生地屋は、有田焼の生産ラインの中で、つながる部分なので、二人は隣同士ということもあってよく仕事のことについて話すし、同じ発注元の、それぞれのパートを請け負うこともあるのだという。せっかくなので今日は飛び込みで、山辰さんの仕事場も見せていただくことになったのだった。
松本美枝子