冬のある朝、日立市郷土博物館へと訪れると、田切先生は、にこやかに私を出迎えてくれた。ここは日立に関わる考古、歴史、民俗、美術などの資料を保存、研究し、展示する博物館だ。特に日本有数の銅山と共に科学技術の町として発展してきた日立市の歴史資料には、みどころが多い。
茨城大学の名誉教授である田切先生は、ここの特別専門員として、この地域の地質、特に日立のカンブリア紀の地層の研究をしているのだ。
「研究者の用語で《マザーフィールド》という言葉があります」
博物館の奥の部屋で、先生はまず、こう口火を切った。
マザーフィールドとは「自分を育ててくれた場所」であり、つまり学者にとって、その研究のテーマとなる場所のことだ。
田切先生は昭和20年、茨城県日立市本山に生まれた。本山といえば、今では知る人も少なくなったが、日立鉱山がある山の中に忽然と現れ、当時先端の文化を誇った鉱山の町であった。日本の産業史に燦然と輝く大銅山、日立鉱山。その繁栄と共に本山の町は発展し、往時は1万人以上もの人々が住んでいた。鉱山で働く人々のために、当時最新の五階建ての鉄筋アパートと商店街が立ち並び、さらには劇場、プールなどもあったという山の町には、レベルの高い教育と文化が存在したのだと田切先生はいう。だが鉱山を閉じた今は、人気のない静かな山へと戻り、今、その繁栄を偲ぶ手がかりは、わずかな町の遺構と歴史資料の中にしかない。
地中の鉱物を採掘する鉱山の開発にとって「地質学」という学問は、切っても切り離せないものだ。一流の技術者が多くいたという鉱山の街・日立市は、同時に地質学のメッカでもあり、本山の採掘場で遊び、石と山に囲まれて育った少年が、地質に興味を持つようになるのは自然なことであった。
やがて田切少年は地質学を学ぶようになり、東北大学大学院を卒業して「たまたまちょうど空いていた」という茨城大学理学部に赴任したのであった。以来、田切先生は茨城大学で日立の地質の研究を続け、茨城大学副学長となり、退官後に縁あってこの故郷の博物館へと戻ってきたのであった。
地質学はフィールドワークが欠かせない学問だが、田切先生にとって、生まれ育った日立の山と町が、そのまま一生続く研究の場所となったわけだ。それは研究者としてラッキなーことですよね、と私が問うと、先生は頷いた。
松本美枝子