山間にある秩父では田畑を広げることが難しく、江戸時代には蚕(かいこ)を飼育して、その繭から生糸(絹)を作る養蚕が主要な産業として根付いていた。阿左美さんが小学生の頃にも、クラスに数人は蚕を飼っている家があったという。
秩父における養蚕業の歴史を調べると、埼玉県のホームページに「(蚕を)春、夏、晩秋、晩晩秋の4回飼育」とある。しかし、蚕はもともと春に孵化する生き物。どうやって異なる季節に4回も?
「養蚕農家は幼虫の卵を買ってきて、それを孵化させて育てます。それが春になっていっぺんに孵化しちゃうと、人手も餌になる桑の葉も足りなくなる。だから、孵化のタイミングをコントロールするために、天然氷が使われてきました。氷室で冷凍保管している卵を外に出すと、孵化するんです」
この技術が確立されたことで生糸の量産体制が整い、江戸時代から明治、昭和初期にかけて、秩父には数千軒の養蚕農家があったというから、その盛況ぶりがうかがえる。その歴史のなかで、氷屋はまさに「みんなの役に立つこと」を担ってきたのだ。
しかし、1929年の世界恐慌で繭と生糸の価格が暴落。さらにレーヨン、ナイロンなどの化学製品が普及、輸入絹織物の増加などによって、日本の養蚕農家は一気に衰退してしまう。統計を見ると、1929年には全国に221万戸あったとされる養蚕農家は、2023年には146戸にまで激減している。ちなみに、秩父では現在、養蚕農家は2軒しかない。養蚕農家とともに成長してきた秩父の天然氷の蔵元も時代の逆風に抗えず、次々と姿を消した。
「秩父に10数件あった氷屋さんが、昭和の終わりにはうちだけになっちゃいました。うちがなぜ生き残れたかというと、営業エリアの長瀞が観光地だったんですよ。まだ製氷機が一般的じゃない時代は旅館や食堂は100%うちの氷を使っていたし、昭和の頃はまだ氷を入れる業務用の冷蔵庫を使っているところも多かった。大きい旅館になると、1日で相当な量を仕入れてくれました」
未知の細道の旅に出かけよう!
冬にしか出会えない、寒さを忘れるかき氷