太三郎さんと同じく、雅子さんもまた「ずっと絵を描いていたい」と願う青年へと成長した。しかし、70年代を生きる女性は仕事を持たない限り結婚を迫られる時代。美術系の短大に通いながら、就職のために語彙力をつけようとコピーライティング講座を受けた。1年のコースを3カ月で修了するという勤勉さで、映画に携わる大阪の広告代理店・日宣(現Ngrowing)に紹介されたのが、最初の就職先だ。
「私、映画が大好きだったので楽しくてしょうがなかったんです」と夢見るように振り返る。任されたのは、映画の予告編をテレビで一足早く紹介する『映画の窓』で紹介文を書く仕事。まだ字幕もついていない洋画の内容を勘で書くと、それらが意外とヒットしたのだと笑った。
その後、映画のフィルムを届けに行っていたテレビ局から「あなた、面白いからいらっしゃい」と引き抜かれ、今度はテレビの仕事が始まった。1965年から続く長寿番組の『イレブンPM』を始め、子ども番組やお笑い番組のテロップを描くのに大忙しだったという。
「あっちからもこっちからも『手伝って!』と言われて、絵を描いたりお茶を入れたり。いつも文化祭のような感じで働くことが楽しかった、ずっと」
太三郎さんと結婚した24歳の頃にはテレビ局を退職していたものの、やはり働くことは好きだったと語る。自分の夢に向かい奮闘する太三郎さんの話を聞いた後だからか、少しだけ遠慮がちに「恵まれてるよね」と言う。
「私はなにかを達成するために行動したことがあまりなくて。レールが勝手に引かれて、行ってみたらぜんぶ面白いところだったんです。そんな人生って、なかなかないよね」
未知の細道の旅に出かけよう!
八ヶ岳の「こどものこころ」を訪ねて
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