えほん村の看板や妖精たちの家、魔女や動物たちなどの作品を作っているのが、えほん村の「村長」こと松村太三郎さんだ。池田さんが「おもしろいことが大好きな関西のおじちゃんです」と紹介したとおり、関西弁で小気味よく話してくれる。
「私が生まれたのは1944年ですから、終戦の1年前なんです」
奈良県出身の太三郎さんの最初の記憶は、瓦礫だらけの焼け野原で遊んだ光景だ。おもちゃも本もないなか、太三郎さんは木切れを拾ってナイフで削って電車や飛行機などを作って遊んだ。小さい頃から動物が好きだったので、自分で紙を束ねて動物図鑑を作ったこともあるという。
「そのうち、お話も自分で考えて。ちょっとした短編や時代劇みたいな物語を書いてみたりしたね。絵本を作ろうと思っていたわけじゃなくて、ただ絵を描いてなにか作りたかったんです」
純粋に絵を描き続けたいと思う少年が、美大に進みたいと考えるのは自然な流れだった。ただ、世の中はまだ戦後の立て直しの時期。その夢はかなり高望みだったと振り返る。
「やっぱり絵は食えないと思われていたから。親父には稼げるほうに行ってくれと言われて建築を目指していました。でも、絵を描くことをどうしても諦められなくてね。卒業の1カ月前に『やっぱり美大に行きたい』と進路を変更したんです」
反対する両親を説き伏せ二浪した結果、太三郎さんは国立の京都教育大学に入学。美術学科でグラフィックデザインを学んだ。当時は絵本作家を目指していたわけではなく、「とにかく絵を描きたい」という気持ちだけ。卒業後にデザイン会社に就職したことで、やっと念願の絵を描く仕事に就いたものの1年ほどで退職してしまったそうで、「自分が出すぎて、人に雇われるのが合わないんですよ」と豪快に笑った。広告代理店や印刷会社にいる友人から仕事をもらい、フリーのイラストレーターとして生計は立てられていたという。
「でも、だんだん嫌になってきちゃって。『誰々風に描いて』なんて言われることもあったし、クライアントの意向に沿ったものを描かなきゃいけない。本当に描きたいようには描けないんでね……」
絵が描きたい。燻り続ける太三郎さんの気持ちが向かった先は、絵本だった。幼少期に自身で物語を作ったように、絵本であれば自分の描きたい作品が描けるのではないか。そう考え始めた頃に同じくフリーで絵や文章を書いていた雅子さんと出会い、雅子さんの文章と太三郎さんの絵を合わせた作品を持って出版社を回り始めたのだった。
未知の細道の旅に出かけよう!
八ヶ岳の「こどものこころ」を訪ねて
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