埼玉県さいたま市
最寄駅から徒歩30分の住宅街に、国内外からお客さんが絶えないパン屋がある。「畑のコウボパン タロー屋」。人気の秘密は、果物、野菜、ハーブを採取して仕込む自家製酵母にある。
最寄りのICから【S2】首都高速埼玉新都心線「さいたま見沼」を下車
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プシュッ、シュワーーーッ。
「畑のコウボパン タロー屋」のシェフ・星野太郎さんに、レモンと水が入った瓶の蓋を緩めてもらった瞬間、まるでよく振られた炭酸飲料の蓋を開けた時のような音がした。瓶のなかが一気に泡立ち、蓋の脇から勢いよく液体が溢れてくる。
驚いたのは、「シュワーーーッ」という音が止まらないこと。しかも、数メートル離れたところにいても聞こえる、かなりの音量だ。レモンの甘酸っぱい香りが、タロー屋の店内に広がる。太郎さんは、穏やかな笑顔でその様子を見ている。太郎さんがその液体のなかで「酵母」を大切に育てていると知っている僕には、元気いっぱいの子どもを見守る親のような表情に見えた。
酵母はパン作りに欠かせない微生物で、人間の手によってパン作りに最適化した「イースト菌」と、自然界に存在する「天然酵母」がある。酵母は水のなかにも土のなかにもいて、パンに使いやすいのは糖分が多い花や果物に付着しているもの。
太郎さんは、自宅の庭や信頼できる生産者のもとで収穫された果物、植物、野菜をカットして瓶に詰め、そこに水を入れて密閉する。そうすると、酵母は瓶のなかで餌となる果物、植物、野菜の糖分をむしゃむしゃと食べる。その過程で、炭酸ガスやアルコールが発生する。この働きを発酵という。
この炭酸ガスが、蓋を開けた時の「シュワーーーッ」の正体だ。元気な酵母を含む水を小麦粉、塩と一緒にこねると、今度は酵母が小麦粉の糖分を食べて発酵する。その時に放出する炭酸ガスの効果で、パンの生地がぷくーっと膨らむ。
天然酵母はアマゾンで買うこともできる。この便利な時代に、太郎さんは自らの手で20~30種類の酵母を仕込む。
「庭にある八重桜の樹は、母が植えたものです。僕にとって春を告げるのは、この桜の花と若葉を一緒に瓶詰したとき。桜の次に咲くのがバラで、初夏になるとベリー系がなり、それからラベンダーが咲いて、赤紫系の瓶が並ぶと夏が来たなと感じます。夏はトマトやハーブ、秋になると庭の金木犀を使います。冬はゆずやミカン、カリンなど柑橘系やリンゴですね」
タロー屋のパンはすべて、酵母の名前が冠されている。例えば取材の日、店頭の黒板には「レモン酵母のノワ・レザン」「ユズ酵母の食パン」「リンゴ酵母のシナモンロール」などと記されていた。
どのパンも、口に含むと酵母のほんのりとした香りが広がる。それは、生地に果肉を練りこんだパンのダイレクトな風味と違い、「咀嚼して飲み込もうかなという時に、フッと鼻に抜けるんです」(太郎さん)。この繊細な味を求めて、全国、そして海外からもお客さんがやってくる。誰もが名を知るような著名なアーティストは、「柚子酵母のシュトーレン」を「宇宙一」と評する。
週に二日、木曜と土曜の開店日には行列ができるタロー屋だが、意外なことにパン作りは独学。太郎さんが30歳になる年に、すべてが始まった。