ひとつ実績ができると、信頼感が増す。太郎さんのパンを売ってくれる店が、二軒、三軒と増えていった。家庭用のオーブンレンジでは間に合わなくなり、近所のカフェにあるオーブンを使わせてもらって、自転車で配達するようになった。最初の頃はよろず屋の仕事の合間にパンを焼いていたが、いつしか、パンを焼く合間によろず屋の仕事をするようになった。
「デザインやクリエイティブな表現を仕事にしたいと思っていたんだけど、パンを焼くようになったら、自分はそこにへばりつくように生きようとしてたんだなって無理を感じてしまって。それに対して、自家製酵母のパン作りはまだたいした仕事にもなっていないのに、とにかく気になってしょうがないし、どんどん探求したくなっちゃう。これならずっと向き合っていけるかもしれないという根拠のない確信を感じ始めていました」
パン屋を生業とするなら、本格的にパン作りを学んだほうがいいだろうという考えはあった。しかし、自己流で始めて、少しずつ評価されるようになった自家製酵母のパン作りを全否定されるかもしれないと思うと、怖くなった。
とはいえ、そのまま独学を貫くことにも不安を感じていた太郎さんは、街中にオープン厨房のパン屋があると、なにか参考にできることはないかと、へばりつくようにのぞき込んだ。
「六本木ヒルズのなかにあるパン屋さんがオープン厨房でバケットを作っていたんです。どうやって作るのか知りたかったからずっと眺めていたら、ブラインドを閉められました(笑)。シナボン(シナモンロールのチェーン店)でお店の人がシナモンロールの整形をしていた時も、長い生地をくるくるロールしていくところをすごいなと思って見ていたら、ブラインドを閉められましたね」
この駆け出し時代に出会った人のなかには、オープンにアドバイスしてくれる人もいた。例えば、「日々」で太郎さんより先にパンを販売していた女性からは「たくさん教えてもらって、いろいろ影響を受けました」と感謝する。
こうしてよろず屋と二足の草鞋を履いて2年が過ぎた2007年、ついにパン屋として生きていこうと決意を固める。