専門学校卒業後、4年務めた店舗デザインの会社から独立。小さな店舗や展示会のブースのデザイン、ホームページのデザインなど「よろず屋」として働いていた29歳の初夏、同じ予備校出身の友人が働くデザイン事務所を訪ねた。
「改訂する自家製酵母パンのレシピ本の装丁をしている」という友人の事務所には水を入れた瓶が並び、リンゴなどの果物がプカプカと浮いていた。「開けてみなよ」と促されて蓋を緩めると、プシュっという音とともに泡が出てきた。
「なにこれ、なにか入れたの?」
「いや、リンゴについてる酵母菌がこのなかでリンゴの糖分を食べて、発酵してるんだよ」
当時、酵母も発酵についてもまったく知らなかった太郎さんは、半信半疑だった。友人に「ウソだと思うならやってみなよ」と言われ、北浦和の実家の庭に生えていたビワを瓶詰した。3、4日もすると、友人のところで見た発酵よりも明らかに力強く泡を吹いた。
「すごく元気なのができちゃったんですよ。びっくりしちゃって、なんだこりゃって」
予想外の反応にテンションが上がった太郎さんは友人に電話し、事務所に瓶を持っていって蓋を開いて見せた。友人は「すげえ!」と感嘆、そこに居合わせた友人の父は感心しながら「これ、太郎くんに向いてるんじゃないの?」と言った。
想像を超えるビワの発酵に「これ、なんなんだろ。わかんないけど、すごく嬉しい」と感じた太郎さんは、友人が装丁を手掛ける本を頼りに、ビワ酵母を使ったパンを作ってみた。家庭用のオーブンレンジで焼いたパンは不格好ながら、太郎さんはその味に度肝を抜かれた。
「僕はそれまで普通のパン好きで、軽井沢の老舗のパン屋さんのファンでした。そこのパンより、おいしい気がしたんです。とんでもなくうまいもんが焼けてしまった、これは大変だと思いました。泣けるぐらい感動しちゃったんです」
ビワ酵母のパンを口にしてから、太郎さんは酵母とパン作りに没頭していく。それは、なかなか思い通りにいかなかったそれまでの人生を取り返そうとするかのようだった。