1973年、北浦和で生まれた太郎さんは、高校1年生の時、美術教師をしていた父親の勧めで画塾に通い始めた。すぐに夢中になり、美術大学を目指すようになる。
しかし、受験に失敗。4年間浪人して燃え尽き、2年制のインテリアデザイン専門学校に入学する。「投げやりな気持ち」だったから、勉強にも身が入らない。「もっとちゃんと勉強しなきゃ」と思った太郎さんは両親に頼み込み、今度はディスプレイデザインを学ぶ専門学校に入った。この時期を、「最悪の黒歴史」と表現する。
受験と専門学校で計8年を費やし、卒業した時には25歳。東京・千駄ヶ谷にある店舗デザインの会社で働き始めた時には、「やっと社会人だ、食らいついていかなきゃ」と考えていた。そうして朝から晩まで働いているうちに「もっと自分で生み出すような仕事がしたい」と思うようになり、独立する。
「ずいぶん生意気ですよね(笑)。それで北浦和に戻って、よろず屋を始めました」
仕事も生き方も模索していた20代の最後に、酵母とパン作りに出会ったのは先述した通り。ビワの酵母とそれを使ったパンに胸がときめいた太郎さんは、スーパーで買った果物で瓶詰めをするようになった。ビワと比べると発酵するまでに時間がかかるもの、発酵の力が弱いものがあり、その違いを含めて、「面白い世界だなあ!」とますます興味がわいた。
酵母を作る材料として、売っているもの以外にも手を伸ばすようになった。散歩をしていて、庭にジャスミンの花が咲いている家を見つけると、後日、パンを持参して挨拶に行き、「花を分けてもらえませんか?」とお願いした。庭にレモンの樹がある人の家も、同じように訪ねた。教師を引退した後、自宅で畑を始めた父親にも、酵母に使えそうな野菜を作ってもらった。太郎さんがここまでのめりこんだのは、理由がある。
「花や草木が好きな親で、その影響で僕も小さな頃から自然が好きでした。昔は北浦和にも原っぱがあって、そこで山ほど採ったつくしをおばあちゃんが醤油で甘辛く煮てくれたり、僕が摘んできたよもぎで、一緒によもぎ餅を作ったりしましたね。幼稚園の帰りに母親と野いちごを摘んで食べたり、野ブドウを絞ってジュースにしたのも、ものすごく幸せな記憶です」
太郎さんには、家族で自然の恵みを味わうという原体験があった。身近な果物や植物を酵母にしてパンを作るという行為は、忘れがたい思い出と強烈に結びついたのだ。