酵母ができると、本を参考にパンを焼き、周囲の人に食べてもらった。おいしいパンができることも、できないこともあった。その試行錯誤が、まるで実験をしているようでワクワクした。
「子どもの頃に楽しかった感覚を大人になっても体験することができるんだな、これって僕にとって素晴らしいことかもしれないと思いました。都市近郊の住宅地で自然と関わりを持ってパンを焼くってクリエイティブだし、面白いなと」
太郎さんのパンを試食する役目を担ったのが、当時同棲していた妻のまゆみさん。1校目の専門学校で出会ったそうで、太郎さんにとっては「最悪の黒歴史」のなかで唯一の光であり、太郎さんの初期のパンを知る人でもある。
「部屋中が瓶だらけになって、これどうするの?って。ほんとは私、クロワッサンとかデニッシュ系が好きで、彼が作り始めたカンパーニュとかはあまり食べたことがなかったんです。だから最初の頃は、こういうパンもあるんだね、焼きたてを食べるとおいしいね、みたいな感じでした(笑)」
よろず屋の仕事をしながらも、太郎さんはたくさんの酵母を仕込み、パンを焼き続けた。酵母の素材を分けてくれた人の家に届けるのはもちろん、近所のレストラン、ビストロ、有機野菜を扱う八百屋さんなどもアポなしで訪ね、事情を説明して「パンを食べてもらえませんか?」と頭を下げた。この大胆な行動が実を結ぶ。
「北浦和にある食器と骨董を扱う日々(にちにち)というお店の店主は、いろいろなことに興味があって町で面白いことをしている人の商品を扱いたいという方なんです。日々さんにパンを持っていったら気に入ってくださって、『うちに置いてみない?』と言ってくれました。日々さんが初めて僕のパンを売ってくれたお店です」
パンを卸すとなったら、屋号を決めなくてはいけない。どうしようかなと悩んでいたら、日々の店主に「太郎くんだから、タロー屋でいいんじゃない?」と言われた。この頃には父親が畑で育てたアーティチョークやラズベリー、ビーツなどの野菜で酵母を作っていたこともあり、「畑のコウボパン タロー屋」と名付けた。