さて日が暮れる前に、盛街道を通って栗木鉄山跡と種山高原に行くことにした。賢治が1度目の人首への旅で行ったところだ。この江刺周辺は、昔から金や銅、鉄などの様々な鉱物が採掘されており、蝦夷の一族の繁栄にも砂金の産出が重要な役割を果たしたと言われている。
この盛街道は水沢を起点に、人首を通って大船渡の盛までをつなぐ、岩手の内陸と三陸をつなぐ重要な道だった。そして軍需産業に沸いた大正時代には人首周辺にもいくつかの鉱山があり、水沢まで鉄を運ぶ盛街道一帯が賑わったのだという。
その中の一つ、栗木鉄山跡に寄ってみることにした。往時には国内の民営鉄山の中で3番目の生産高があり、「山の中に2千人もの労働者がいたんですよ」と佐伯さんが教えてくれた。今では鉱山があったとはわかならないほど、すっかり山の中に埋もれてしまっている。街道沿いから、佐伯さんが指し示す方向を眺めて、頭の中で想像するばかりだった。
鉱山の技師の息子が村の小さな分教場に引っ越してきたことから始まる、現実と心象が交錯する物語「風の又三郎」は、まさにこの時代の情景が一つのモデルになっているのである。賢治が盛街道を通った時、この栗木鉄山を見たことは十分に考えられる、と佐伯さんは語ってくれた。
最後に訪れたのが、物見山である。ここが今回の旅のファイナルディスティネーションだ。物見山のある種山高原一帯の風景を愛した賢治は、人首来訪時はもちろん、何度かここを訪れており、ここの情景は「銀河鉄道の夜」や戯曲「種山ケ原の夜」などのモチーフとなっていると言われている。
この日の物見山は気温2度を切っていた。寒さに震えつつも、種山高原の山並みは、どこまでも続いていくような雰囲気があって、しばらく見惚れていた。黄昏に霞んでいく山の中に、賢治独特の幻想的な心象世界の原風景が垣間見えるような気がしたのだ。
松本美枝子