五輪街道を後にし、また人首の町に戻った。町へと入った途端、お天気雨が降り出した。晴れ間からキラキラした雨が町に降り注いでいる。山あいならではの不思議な天気である。やはり先に峠に行っておいてよかったね、と言いながら佐伯家に戻ると、奥さんがお昼を用意して待っていてくれた。岩手名物「卵麺」である。黄色い素麺のよう……、と言えばいいだろうか。サクサク、プチプチとした食感でおいしい。「卵麺は夏のお料理なのよね」と言って、奥さんは暖かいうどんも出してくれた。
すっかりご馳走になった後、再び人首の町へ。賢治が人首滞在中に友達宛の手紙を出した郵便局や、下書稿にも書かれているバス停や人首橋など、大正時代と変わらぬ場所にある、賢治ゆかりの地を見て回った。これらの場所には全て「賢治街道を歩く会」が設置した案内板が設置してあるので、マップを片手に町を散策するのも楽しいだろう。
さて賢治が大正6年(1917)の人首の旅を振り返った友人宛の手紙の中には「人首ノ御医者サンナンドヲ思ヒマス」と書かれている。当時、人首にあった病院は「角南医院」だけで、賢治が会ったのは当時の院長「角南恂」だったであろう、と佐伯さんたちは推測している。町のはずれにあったその病院は、今は無くなってしまったが、佐伯さんのお父さんの世代には存在していて、町の人々は病気にかかるとそこを訪ねたのだという。
佐伯さんが「病院へ行くときは、今も残る田んぼのあぜ道が近道だったので、町の人は必ずそこを通ったんです」という。だから賢治もきっとそのあぜ道を歩いたのではないか、と佐伯さんたちは考えているのだ。
実際にその道を歩いてみることにした。人首橋を渡り、田んぼのあぜ道に入る。町の人々に踏みしめられてできた、短いでこぼこ道だ。
賢治が最初に人首へ地質調査に来た時は、2人の友人も一緒だったことがわかっている。「仲間の一人が急に体調を崩して、病院を訪ねたのかもしれないですよね」と佐伯さんは推論を語ってくれた。
賢治の物語の中には、弱い人や困った人を心から心配し、オロオロしながらも、手を差し伸べる人物がよく出てくる。昔のままのあぜ道を歩きながら、なんとなく、そんな場面を思い浮かべた。
松本美枝子