こうして私たちの宮沢賢治の足跡を辿る旅は無事に終わった、のであるが……。私たちは佐伯さんの好意に甘えて、もう一泊させてもらうことにしたのである。話がおもしろい佐伯さんとお料理の上手な優しい奥さんがいる、この古くて立派なおうちが、私たちはすっかり好きになってしまったのだ。
さて佐伯家には、古い蔵がある。そこを開けると資料室になっていて、明治、大正、昭和の貴重な文学資料約5000点がぎっしりと入っている。その名も「人首文庫」という。この私設文学資料館の館主は、もちろん佐伯さんだ。小川未明、北原白秋、萩原朔太郎、中原中也、井上靖など、時代を彩る作家たちの手紙や写真、初版本などの貴重な資料を、希望者に無料で公開している。珍しい資料を求めて、研究者や作家が訪ねてくることもある。
なぜ岩手の小さな町の一角に、こんなにもたくさんの貴重な資料が揃っているのか?
実は佐伯家の出身に、詩人であり、戦前の旧内務省の官僚でもあった佐伯郁朗という人物がいる。郁朗は佐伯さんの大叔父にあたる人物で、早稲田大学在学中から詩人として活動しながら、卒業後は内務省で文芸統制の仕事をし、多くの作家たちと深い交流を持った。銀座で飲み歩くのが好きだった北原白秋だが、その妻は「内務官僚の佐伯さんと一緒なら」と許したエピソードもあるそうだ。
宮沢賢治と同時代に生きた佐伯郁朗だが、二人は生前に出会うことはなかった。だが賢治の死後、その作品を讃える草野心平たちによって「宮沢賢治友の会」が立ち上がり、そこに加わった郁朗は賢治の死後に出た「宮沢賢治全集」の出版に尽力している。
戦中、これまで集めた資料や作家たちからの書簡が焼けるのを恐れた郁朗は、東京から岩手へと運んだ。こうして戦火を免れた第一級の文学資料は、いま私たちの眼前にある、というわけなのである。
戦後の郁朗は平成4年(1992)に亡くなるまで、詩人であり官僚でもあった自分の数奇な人生について多くを語らなかった、と佐伯さんは言う。郁朗が創作を続けながらも、戦時下の官僚として芸術を統制する側の立場に苦しんでいたであろうことは想像に難くない。しかしながら現在の研究では、官僚・郁朗の助けによって戦前、救われた作家たちもいた、という証言もあるといわれている。
そして郁朗から貴重な資料と「これを後世に残し、この地域の発展に役立てたい」というスピリッツを引き継いだ佐伯さんは、この屋敷と資料を守りながら、宮沢賢治の足取りの調査を続けている、というわけだ。佐伯さんの活動は、どことなく郁朗の姿勢にも重なって見えてくる。
松本美枝子