未知の細道
未知なる人やスポットを訪ね、見て、聞いて、体感する日本再発見の旅コラム。
104

〜詩が生まれた場所を歩く〜

宮沢賢治が旅した人首の街道

文= 松本美枝子
写真= 松本美枝子
未知の細道 No.104 |25 December 2017
この記事をはじめから読む

#8佐伯郁朗と「人首文庫」

蔵を改装して作った人首文庫

 こうして私たちの宮沢賢治の足跡を辿る旅は無事に終わった、のであるが……。私たちは佐伯さんの好意に甘えて、もう一泊させてもらうことにしたのである。話がおもしろい佐伯さんとお料理の上手な優しい奥さんがいる、この古くて立派なおうちが、私たちはすっかり好きになってしまったのだ。

 さて佐伯家には、古い蔵がある。そこを開けると資料室になっていて、明治、大正、昭和の貴重な文学資料約5000点がぎっしりと入っている。その名も「人首文庫」という。この私設文学資料館の館主は、もちろん佐伯さんだ。小川未明、北原白秋、萩原朔太郎、中原中也、井上靖など、時代を彩る作家たちの手紙や写真、初版本などの貴重な資料を、希望者に無料で公開している。珍しい資料を求めて、研究者や作家が訪ねてくることもある。

萩原朔太郎や北原白秋、中原中也、佐伯郁朗たちのグループ「くるみの会」の署名帳。右の絵は白秋が書いた朔太郎の似顔絵という珍しいものだ。

 なぜ岩手の小さな町の一角に、こんなにもたくさんの貴重な資料が揃っているのか?
 実は佐伯家の出身に、詩人であり、戦前の旧内務省の官僚でもあった佐伯郁朗という人物がいる。郁朗は佐伯さんの大叔父にあたる人物で、早稲田大学在学中から詩人として活動しながら、卒業後は内務省で文芸統制の仕事をし、多くの作家たちと深い交流を持った。銀座で飲み歩くのが好きだった北原白秋だが、その妻は「内務官僚の佐伯さんと一緒なら」と許したエピソードもあるそうだ。
 宮沢賢治と同時代に生きた佐伯郁朗だが、二人は生前に出会うことはなかった。だが賢治の死後、その作品を讃える草野心平たちによって「宮沢賢治友の会」が立ち上がり、そこに加わった郁朗は賢治の死後に出た「宮沢賢治全集」の出版に尽力している。
 戦中、これまで集めた資料や作家たちからの書簡が焼けるのを恐れた郁朗は、東京から岩手へと運んだ。こうして戦火を免れた第一級の文学資料は、いま私たちの眼前にある、というわけなのである。

  • 哲学者・谷川徹三からの礼状。
  • 小説家・井上靖の書簡。

 戦後の郁朗は平成4年(1992)に亡くなるまで、詩人であり官僚でもあった自分の数奇な人生について多くを語らなかった、と佐伯さんは言う。郁朗が創作を続けながらも、戦時下の官僚として芸術を統制する側の立場に苦しんでいたであろうことは想像に難くない。しかしながら現在の研究では、官僚・郁朗の助けによって戦前、救われた作家たちもいた、という証言もあるといわれている。
 そして郁朗から貴重な資料と「これを後世に残し、この地域の発展に役立てたい」というスピリッツを引き継いだ佐伯さんは、この屋敷と資料を守りながら、宮沢賢治の足取りの調査を続けている、というわけだ。佐伯さんの活動は、どことなく郁朗の姿勢にも重なって見えてくる。

佐伯邸の一番奥の座敷。実家に帰ると、必ずこの部屋で郁朗は寝たという。
このエントリーをはてなブックマークに追加


未知の細道 No.104

松本美枝子

1974年茨城県生まれ。生と死、日常をテーマに写真と文章による作品を発表。
主な受賞に第15回「写真ひとつぼ展」入選、第6回「新風舎・平間至写真賞大賞」受賞。
主な展覧会に、2006年「クリテリオム68 松本美枝子」(水戸芸術館)、2009年「手で創る 森英恵と若いアーティストたち」(表参道ハナヱ・モリビル)、2010年「ヨコハマフォトフェスティバル」(横浜赤レンガ倉庫)、2013年「影像2013」(世田谷美術館市民ギャラリー)、2014年中房総国際芸術祭「いちはら×アートミックス」(千葉県)、「原点を、永遠に。」(東京都写真美術館)など。
最新刊に鳥取藝住祭2014公式写真集『船と船の間を歩く』(鳥取県)、その他主な書籍に写真詩集『生きる』(共著・谷川俊太郎、ナナロク社)、写真集『生あたたかい言葉で』(新風舎)がある。
パブリックコレクション:清里フォトアートミュージアム
作家ウェブサイト:www.miekomatsumoto.com

未知の細道とは

「未知の細道」は、未知なるスポットを訪ねて、見て、聞いて、体感して毎月定期的に紹介する旅のレポートです。
テーマは「名人」「伝説」「祭り」「挑戦者」「穴場」の5つ。
様々なジャンルの名人に密着したり、土地にまつわる伝説を追ったり、知られざる祭りに参加して、その様子をお伝えします。
気になるレポートがございましたら、皆さまの目で、耳で、肌で感じに出かけてみてください。
きっと、わくわくどきどきな世界への入り口が待っていると思います。