山の天気は変わりやすい。人首の町には、また戻ってくることにして、天気がいい午前中のうちに、五輪峠まで車で登ってみることにした。かつて人や馬が歩いて通った五輪峠への道はすでに使われなくなり、昭和31年(1956)になって新しい道路ができている。時代と共に全く使われなくなった旧道は大半が草木に埋もれてしまったが、そのおかげで賢治たちが歩いた当時のままの道が残った。近年その一部を佐伯さんたち「賢治街道を歩く会」が整備して、昔の峠道の雰囲気を歩いて体感できるようになっているのだ。
佐伯さんは「昔は水沢から人首を通ってこの峠を越えて遠野や、さらに宮古などの三陸海岸まで出たんですよ」と教えてくれた。賢治も行った遠野だが、昔はこの峠が人首から遠野に出る唯一の道だったのだ。
五輪峠の頂上まで行くと、名前の由来となっている「五輪塔」がある。
この付近の武士が先祖の供養のために350年ほど前に建てたもので、すでに2度ほど代替わりしているらしい。賢治が見た塔は2代目だろうと言われている。
「五輪峠」という詩の中にはこう書かれている。
あゝこゝは
五輪の塔があるために
五輪峠といふんだな
ぼくはまた
峠がみんなで五っつあって
地輪峠水輪峠空輪峠といふのだらうと
たったいままで思ってゐた
地図ももたずに来たからな
『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房、2009)より引用
実は五輪峠には戦にまつわる言い伝えなどが多く、平成に入ってからも、摩訶不思議なことが起こると言われている場所なのだそうだ。行く前から佐伯さんにさまざまな言い伝えを聞いていたので、なんとなくドキドキしながら五輪塔の周りを歩いた。
賢治は1度目の旅では、五輪垰で野宿したのだが、のちにその夜のことを「とても恐ろしさを感じた、その静けさは死と同様である」と恩師に語っている。賢治の文学は、大いなる自然との交感が豊かに描かれているのも魅力の一つだ。そんな賢治だからこそ、この地にヒヤリとする何かを感じ取ったのかもしれない。音楽家の友達もあたりに耳を傾けながら、確かにここは音がないなあ、静かすぎる、と呟いていた。
峠を下って人首へと向かう行く道すがら、蛇紋岩という、鉱物を多く含んだ火成岩の露頭が目につく。子供の頃から「石コ賢さん」と呼ばれるほど鉱物採集に熱中し、長じてからは地質を学んだ賢治だが、学生の時の旅も地質調査が目的だった。以後の作品のモチーフにも、地質や鉱物は深く関わってくる。
1度目の旅では蛇紋岩をハンマーで割りながら「ホーホー20万年もの間日の目を見ずに居たのでみんな驚いている」と叫んだ、と同行した友人の逸話が残っている。もしかしたら、この蛇紋岩のどこかに賢治がハンマーをあてたのかもしれないな、と思えば、自分にとってはなんでもないはずの岩でも、急に違って見えてくるから不思議だ。蛇紋岩を含め、この辺り一帯の地盤は太古の昔は海の底にあったものだ。自然の神秘が賢治の心を刺激したことは間違いなさそうだ。
松本美枝子