1970年代といえば、高度経済成長期の真っ盛りである。足利も繊維工業で大いに活気があり、近隣の工場で働く人たちが仕事がえりにどっとアラジンに立ち寄った。おかげで、屋台は連日大賑わい。冬になると一斗缶で焚き火をし、火にあたりながらコーヒーを飲んだ。それを見るうちに次郎さんも、一日の終わりに飲むコーヒーの幸せに気づくようになった。当時、次郎さんは、郵便局員として働いていたが、仕事の後はアラジンを手伝うようになった。
「親父一人だけじゃなかなかトイレも行けないし、ご飯も食べられないからさ。でも、最初はなれなくて、ありがとう、いらっしゃいませもうまく言えなかったよ」
一年ほどすると、次郎さんは屋台の仕事に専念することに決めた。
「サラリーマンっていうのは俺には合わないって思ってたから。お袋には『郵便局、やめちゃってー』と後々まで言われたけどね」
そうして、十数年が経過した頃、父・弥四郎さんが亡くなった。その時、次郎さんは、一人でもアラジンを続けることを決意した。その一年後には、銀座の割烹料理店の板前をしていた兄の哲夫さんも、アラジンを手伝ってくれることになった。
「割烹の料理人からコーヒー屋台って、全然違いますよね」と私が声をかけると、「うん。でもこの仕事、一人じゃできないからねえ」と無口な哲夫さんは照れたように答えた。
そうして、兄弟二人による二代目・アラジンが生まれた。しかし、父の代と変わったものはほとんどない。むしろ変わったのは、周囲の風景だった。隣に流れていた川は暗渠化され、代わりに駐車場ができた。田んぼは姿を消し、住居や商店に変わった。それでも、二人は場所を変えようとは思わなかった。
日が落ちると、辺りは静けさに包まれた。
刻々と変わるランプの炎を見ていると、気分が安らぐ。夜6時になろうとしているが、まだお客さんは一人もいなかった。
「お客さんは、常連さんが約6割、新規が4割。県外から来る人も多いね。最近はコーヒーブームもあって、若いお客さんもずいぶん増えた」
そう次郎さんは言うが、辺りはあまりにも静かで、本当に誰か来るのだろうかと思った。
「いつも何時頃にお客さんがくるんですか」
「その日によって違うよね。週末なんかは開けたとたんに来るよ。でも今日は平日だからどうだろう。一番混むのは夜8時以降だね」
川内 有緒