————時は1975年。ふたりはまだ若く、駆け出しのアーティストだったそうだ。
少しずつ活躍の場を広げつつあった若江さんに、ドイツのギャラリーで展示をする話が舞い込んだ。
「ドイツのことはまったく知らなかったのですが、せっかく呼んでもらったので行ってみようということになりました。最初は短期間の予定でしたが、現地でカルチャーショックを受けて、もっとドイツを見たいと思って、結局は1年間の滞在になっちゃったんです」(栄戽さん)
この1年間が、ふたりの運命を変えた。
「ドイツのギャラリーがあったのは、横須賀と同程度の小都市だったのですが、その街には美術館、オーケストラやサッカークラブ、屋内プールが6ヶ所もあって、“文化的格差”を感じたんです。普通の人たちがふらっと美術館にいくことに驚きました」(栄戽さん)
同時に、自分の故郷・横須賀には、美術館がひとつもないことに気がついてショックを受けた。というよりも、当時の日本の地方都市には、両手で数えられるほどしか美術館がなかったのだ。
そのとき、そうだ! それならば自分たちで美術館をやればいいとひらめいたという。
「たまたま江戸時代から先祖代々持っている土地が実家にありました。だから、ドイツに来たのは、ああ、私に対して、なにかこういうこと(美術館の創設)をしなさい、というメッセージなのかなと」
同時に、若江さんも、「私たちはみなアーティストである」というヨーゼフ・ボイスから、大きな刺激を受けたという。
「芸術家の使命は社会を変革することだとボイスは言いました。だから、芸術家も象牙の塔にこもって作品を作っていればいいわけではないと感じました。たとえば、ボイスはどんどん街中に入っていって市民と一緒に座り込み運動をした。だから私も、アーティスト活動をしながら社会のなかでできることを、と考えて、美術館をつくることにしたんです」
こうして二人は故郷・横須賀に美術館を開くことを決意する。
しかし、美術館というのは、建物があればいいというわけではない。そこで見せるべき作品、つまりは「コレクション」が必要である。そのコレクションこそが、その美術館の真価を決めるのだ。
川内 有緒