大学では「工芸作物」の研究を行った。珈琲やお茶、スパイスなどの嗜好品や染料、繊維作物などの生活に役立つ作物を研究する分野である。
「綿ってこんな植物だったんだ、とかいろいろ衝撃を受けました。綿すら認識できない私たちがこんなに大量にコットンの服を着てるんだ、そういうことに気がついて、研究以前に知らないことが多すぎるって」
もうひとつ気が付いたことは、生産され、収穫された後の作物の加工過程はほとんど世に知られていないことだった。舞子さんは、かつての日本人の暮らしの中で培われていた作物の加工技術を知り、工芸作物の必要性を学び、伝えたいと思うようになった。
大学卒業後は、山梨県甲州市の野外教育施設に就職し、東京を脱出することに成功。林間学校でやってくる子どもたちに向けてキャンプ体験などを提供していたという。しかし、やはり農業の世界に関わりたいと農業生産法人に転職し、果樹栽培に関わった。その時は、いずれは果樹農家として独立したいと考えていた。
ところが、苗木を育て、果実を収穫するまでに数年を要する果樹栽培には、多くの資金が必要で、二十代の若者にはハードルが高かった。その頃、様々な現実の壁を知り、一度は農家になる道を諦めかけた。失意の中で東京に戻り、再び人生を模索し始めた。そんな時に新たに見つけた可能性が、「地域おこし協力隊」だった。面接を受けると採用され、3年間の任期で再び山梨県甲州市に戻ってきた。
このとき、協力隊として取り組もうと決めていたのが、「野草の活用」だった。
「除草剤で除草の対象になる草について調べてみると、どれもがかつては薬草として使われていたことがわかったんです。『雑草という名の草はない』と昭和天皇がおっしゃられたけど、本当にそうなんですよ。野草とか雑草といわれるものにも名前があって薬効があるんです」
さらに、舞子さんが住んでいた甲州市塩山には、江戸時代には「甘草」という生薬を栽培し、幕府に納めていたという歴史もあった。
かつての日本人の生活には野草や薬草が深く結びついていたことに気がつくと、野草を生活に取り入れる提案をする活動を開始した。
「野草を使って日本人を健康にしよう! というような大上段に構えた活動ではありませんでした。それよりも、かつての日本人がしていたように、自分で自分が食べるものを作る暮らしをしたい、自然と共に暮らしがある日本らしさを失いたくない。そう考えるなかで、自分ができることとして、野草というものを見つけたのです」
農業から野草へ。
考えてみると、面白い発想の逆転である。なにしろ、野草は「農業」からしてみると、ないほうがいい存在、つまり敵なのだ。しかし、同時に農業があるところには必ず野草があった。さらに、耕作放棄地が増えている現状では、野草は増える一方。それならば、資源として活用できるに越したことはない。
「野草のことをやろうと決めたら、おじいさん、おばあさんがみんな応援してくれて、頑張れる気持ちになれました」
甲州市の地域おこし協力隊は、市や支援機関の指導を受けながら、比較的自由に定住に向けて自分がやりたい活動を決めることができた。だから、舞子さんは、地域活動の傍ら、退任後の独立を視野に入れ、野草の観察会や学校への出張授業など、様々な活動を精力的に行った。
そして、地域おこし協力隊の最後の年となる3年目、今後の拠点となる場所をオープンすることを決意。この地に腰を据えて、野草とともに生きる人生を選んだ。
この時、30歳という節目の年に小さな家を買った。山に向かって眺望がひらけた美しい場所に建つ一軒の家。それが、現在のお店「つちころび」である。
2014年8月2日、「ハーブの日」にちなんで「つちころび」はオープン。その日は、近隣の友人たちや、仲良くなった地元のおじいさん、おばあさんが大勢お祝いにかけつけた。
川内 有緒