こうして、3種の野草を摘み終わった私たちは、舞子さんのお店「摘み草の店 つちころび」に向かった。
お店の庭には、色とりどりの花が咲き乱れ、遠くには山々も見え、そして谷に向かってひらけた土地は、どこか南仏のようだ。そして、お店の中に入ると私は、「うわあ、すごいですね」と感激の声をあげた。
お店というよりも、中世の魔女のアトリエみたい……!
午後の光が降り注ぐ部屋には大きな茶箱がぎっしりと積み上がり、戸棚の中には乾燥した薬草が入った瓶やチンキ(薬草をホワイトリカーにつけたもの)がずらりと並ぶ。床の上のカゴの上ではみかんの皮を乾燥させていた。
「あのたくさんの茶箱にはなにがはいっているんですか?」
「乾燥した草が入ってます。もともと私は、乾物に加工することが得意だったんです。昔から趣味で干し柿を作ったりもしてました」
そう言いながら、舞子さんは自分で摘み、乾燥させたカキドオシでお茶を淹れてくれた。初めて飲んだカキドオシ茶は、ミントのようなスッと爽やかな味だった。
現在35歳になる舞子さんは、東京のごく普通のサラリーマンの家庭に生まれた。
もともと、太陽の下で過ごすのが好きな女の子で、物心がついたときには植物や生物の仕組みに興味を持っていた。
「小さい頃、家の周りには空き地があって、そこに捨てられたかぼちゃから芽が生えているのを見つけて、雄しべと雌しべを受粉させて観察したりしていました。あとは、お小遣いでアジ(魚)を買ってきて鱗を観察したり。わあ、鱗って綺麗だなあって。あとは、『真珠をマヨネーズから作る』とかいって、なんか訳のわかんないことしたりしてましたね。いま思うと相当ヘンな子だっただろうなあと思います」
両親は、そんな舞子さんの独自の活動を温かく見守っていたという。
ユニークな子どもだった舞子さんは、15歳にしてすでに農業の道を志し、土とともに生きる決心を固めていた。彼女を突き動かしたのは、東京の街で目にしていた大人たちの暗い表情だった。
「毎日、満員電車に揺られて、中学、高校と女子校に通ってたんですよ。それで、痴漢にあったり、電車の中で疲れている人たちを見て、こんなところに未来はないなと感じるようになりました。東京を抜け出すのはどうしたらいいのかなと考え始めました」
時代は90年代の終わりで、終わりなき不況の真っ最中。それを冷静に見つめた15歳が行き着いた結論は、「生きるのに必要なのはお金ではなく、食べ物ということでした」。
「東京ではお金がないと水も買えないし、遊ぶこともできない。でもお金じゃない世界が何万年も続いていたはずじゃないか。お金がなくても、食べ物を確保するのが最重要なことで、食いっぱぐれない生き方をできればいい」
そう考えた舞子さんは、東京農業大学に進んだ。
川内 有緒