さて日本に帰ってすぐにハーブを作り始めた霜多さんだが、初めはそう簡単にはいかなかった。
まずスペアミントを作って出荷を始めたが、築地市場に持っていくと、すぐに臭い葉っぱを持っている奴がいる! といわれるようになった。有名にはなったけれど、それを買って使ってみよう、という人は皆無に等しかった。
しかしである。市場にいいものを探しに来ていたフランス料理のシェフたちが、やがてそれに気づく日がやってきた。
霜多さんのハーブを目に留めたのは、元・帝国ホテル顧問で、当時は料理長だった故・ムッシュ村上やホテルオークラの故・ムッシュ小野、京王プラザホテルのムッシュ古川など、今でも日本の料理界で語られる、そうそうたる一流料理人たちであった。ムッシュたちが俺のハーブを使いたい、と言ってくれて、運がよかったんだよねえ、と霜多さんはいう。逆に、「霜多君、これを育ててみてよ」とムッシュたちから日本にはないハーブの種の栽培を頼まれることもあった。
こうして霜多さんのハーブは日本の一流の料理人たちによって、ホテルの高級フランス料理の中で使われるようになっていったのであった。
さてその頃、日本のイタリア料理店でも、ハーブは需要も少なければ供給も整っていなかった。レストランではなんとバジルの代用品として、同じ種類の大葉が使われていたくらいであった。
そこで霜多さんがやったことは、市場で1年間毎日10ケースのハーブを無料で出荷する、ということだった。これはいつでもハーブを供給できるよ、という姿勢をレストラン側に見せて、ハーブをどんどん使ってもらいたい、という狙いだった。
こうしてハーブは日本のイタリア料理にも浸透していった。いわゆる80年代の「イタ飯ブーム」は、霜多さんがハーブの供給源だったと言っても過言ではない。
それにしても1年間も無料で配布というのは相当大胆だ。度胸とそれ以上の冷静な見通しがなければできないアイディアだ。
でもさ、こういうこと考えて、仕事を仕掛けるのって楽しいでしょ、と霜多さんはさらりと言うのだった。
約9ヘクタールあるシモタファームには、今も常に100種類以上のハーブが生産されている。農場を歩いていくと、ミント、バジル、タイムなど、いまではすっかり私たちの食生活にもお馴染みになったハーブが、青々と広がっている。
ハウスの中は、ハーブの良い香りでいっぱいだ。このハーブがないレストランなんて、現代では想像がつかないよな……と私はいい香りを胸に吸い込みながら思う。
注文があればいつでも出荷できる、という霜多さんの姿勢とそれを支えるこの農場こそが、日本の食生活にハーブを根付かせる原動力となっていったのだなあ、と丘の上の広大なハウスを一つ一つ見て回りながら、しみじみ思った。
松本美枝子